インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「時間」

短編「時間」


「じゃあ……」

 美しい、と思った。実際それは今までで一番の、傑作ともいえる完成度だった。真知子は興奮ではやる鼓動を、膝頭でぐっと押さえつけた。それから固く握りしめた手が震えないように脇を閉じた。
 慎重にはけを落とす。ねっとりと絡まる真紅は、かき回すとその独特なにおいをふわりと漂わせた。持ち上げて、びんの縁に擦りつけて、中指の爪の上にそっとつけた。

「また、ね」

 失敗。爪のそとにはみ出した。真知子はその時初めて顔を上げ、玄関に立つ男を見た。男は靴べらを置いて、振り返らずにドアを閉めて行った。重たげな静けさがすれ違いに舞い込んできた。
 真知子は男の足音を見送る間もなく、すぐに視線を爪の先に戻した。そして縦向きにはけを押しつけた。しかし、今の一瞬のあいだに乾いてしまったマニキュアは、伸びきらずに跡を残した。
 ティッシュ・ペーパーを二枚取り、指についた真紅を拭く。だがそれも乾いていて上手くぬぐえなかった。ティッシュを捨て、真知子は首をかしげて、先程男がなんと言っていたか思い出そうとした。それはこの憎い気持ちと向き合うために必要なことだと思ったからだった。
 くたりと腕を降ろした。床についた左手の、人差し指の爪だけが真っ赤にキラキラと輝いていた。




.