インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「その目に映る」

その目に映る


 汽笛がけたたましく耳を劈き、衝撃に驚いて覚醒した。自然体な流れで車窓の下に溢した視線が、肥った腕を振り回す少女の横顔をとらえる。嗚呼、成る程。と、江見は思い、発作的な感情を忘れた。読みかけだった文庫本を鞄に仕舞い、あの気怠げな声の女車掌が目的地の駅の名をアナウンスする瞬間を待つことにした。
 道行く人々を皆、許せるようになれた翌朝。ささやかな祝いを兼ねて、一年ぶりに海を見に行こうと思い立った。お気に入りのクリーム色のリュック・サックには、嬉々として様々な物を詰め込んだが、スマートフォンは充電ケーブルに挿したままにした。昨日までの自分だったら、電池が切れそうであったことを心から喜んでいたかもしれない。しかし今はそうではない。江見は鍵を締めても、不安に駆られなかった。最寄り駅まで歩き、各停の列車に乗った。
 上京するまで、浜辺の近くで過ごしていた江見は、都心から交通便の良い海岸を無意識に恐れていた。それは父母の寝室を見てしまう罪悪感と似たような複雑な気持ちがあった。自宅から片道約三時間、少し足を伸ばして向かう先は、広い灘のそばの穏やかな水域だ。かつて行った経験はなかったが、地図の上から見下ろして、生まれ育った場所と似ていると確信した。
 女車掌はやはり気怠げに放送マイクを取り、端的に済ませた。車輪の錆びた音がおおげさに揺れる。プシュー、プシューとどこからともなく鳴って、一号車がホームにすべり込む。薄暗さに目を慣れさせるために、瞬き。間もなくしてドアが開いた。

「お待たせいたしました、…に到着です、お乗り換えは五番ホーム……」

 つま先を跳ねさせ、上体をひねり、意味もなく発車標を眺めて、時が止まる。電光掲示板は空の素直な明るさに透けて、文字が見えづらかった。ベルが鳴り響き、背後の列車はすぐに動き始めたが、江見は振り向くこともせず近くのエスカレーターに乗った。
 改札を出て、人混みを縫う。左側、駅ビル入り口付近のカフェーの窓際はどこも満席だった。勉強をしている風の青年が、去年の今頃購入した紺と浅葱のストライプ模様のワイシャツと同じものを着ていて、しばらく凝視した。駅の階段を降りれば市街地に出る。海抜・十四米、と書かれた看板の先に信号があり、渡る。海岸への案内板に従って歩いていく。アスファルトは粉砕した貝殻が混じっていて、四方に光を滑らせているのだった。
 平坦な通りを囲う、背の低い商店街が続いていた。周辺はつっかけの足音とそぞろな話し声、誰も発していなくて皆が発している形のない賑わいで溢れている。江見はわざと緊張を胸に騒がせ、人々の生温い間隙を風のようにすり抜けて行った。しかし丸みを帯びた笑い声、爽やかな匂い、軽快な音楽はどれも江見の印象に暗い影を差すことはなかった。昨日、初めて知り得た平穏は、やはり確かな感覚であった。満ちてゆく精神、すくぐったい呼吸が、決めつけていた考えを溶かしていく。
 徐々に静けさが漂ってきて、最後の店のガラス戸に映る自身の姿をしっかり目に留めた。けれど何の感慨もなくて、心身ともにここに居るだけであった。街全体が江見を祝福している。どこかにあるだろう、哀しみも苦しさも抱擁してしまいたかった。一つ目の信号も、二つ目の信号も、進む両足を止めなかった。さざ波の音が、急にはっきりと聞こえる。
 海抜・二米。浜辺入口、と、看板が矢印を向けている。肌寒くなってきて、江見は歩きながらリュック・サックを開け、カーディガンを取り出した。着れば袖口がほつれていて、帰ったら直そうと思った、と、同時に喜びに震えた。誰にも理解できないささやかな喜びが滾滾と湧いた。
 泥と枯れ草に汚された階段を降りて、気付けば大きなうねりに飲み込まれる。眺望すれば海が、弧を描いて目の前いっぱいに広がった。

「………は、ぁ」

 カーディガンの裾は翻り、髪が圧巻のひるみを察したかのように乱れる。魅了されたが故に溺れた人間がいるとして、もがきながら誓う想像と現状は変わりのないものだった。自然と開いていた唇を、歯並び吸うように結んで、江見は階段から砂浜へ踏み出した。ちょっと歩いたくらいでは、暮れなずむ夕陽も薄い月も仰いだとして届かなかったが、砂が湿るに連れて、囁きが唸り声になるにしたがって明瞭になって降りてきた。
 江見は力からの祝福の言葉を忘れなかった。そしてまず海に思念より伝達した。感謝も。海はそこに在って、引いて、押して、伸びて、引いていた。輝きを躊躇わずに高く散らす飛沫が、時おり残像を永らく置いて、消えかけた瞬間に重ね合わせるのだった。空は海を包み込むように、それでいて強く身を寄せるように低かった。
 江見は浜辺とすぐに仲良くなり、砂利を蹴っては優しく還して、足裏を気持ちよく舐められながら散歩した。いたずらに、夕陽に額を洗いながら。顔を上げれば燃えるような日射を放ち、そろそろ沈む頃だった。
 再びうつむくと、目が痛かった。チカチカと、強い光があらゆるものの上に乗って消えた。だが波の吐息、砂の柔らかさ、その他もすべて数秒前と変わらなかった。江見は、踵を返した。夕陽が今日という素晴らしい一日の最後に、触れたものが自分だったら。そんな欲望が、不覚にも、出てきてしまったから。
















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