短編「背丈」
背丈
太陽は果実。搾りたての一滴一滴が差すように皮膚に染み入る、其れひりついて痺れるならば酸味を含む。紫外線舐めずって身体中から汗が滲む。しかし喉奥は潤うどころか唾液を欲しがり上へと伸びるばかりで一向に不快感を拭えないから、建はハーフパンツのポケットに手を突っ込み、膨らんだ桑の実をたっぷり掴んで頬張った。瞬間ほんもののすっぱさに固く目を閉ざし、引きつった額からぼたぼたとまた汗が流れた。
土手べりに、桑の老木がある。この地に広く群生する老若のそれらでたった一本孤立している。向うにはすぐに半町歩ほどの田園が広がっているが、斜面も急勾配でないので近所の子どもは揃って木登りをしても滑り落ちたためしがない。
健も老木のお得意様のひとりである。必ずゆとりあるポケットが両腰についたズボンを着てするすると登り、そうして採取する。潰れないように工夫するとあまり入らないが、それでも片側に五、六個は詰められる。級友はパーカーのフードに入れたり、頭巾を持ってきてさかさにしたり、袋を用意したりする。ずるい、と思う。健は、そうすればもっと多くの桑の実を採取できるとわかっているが、生まれたての芋虫のような丸まった白い実、スーパーに並ぶ舶来の柘榴のようなピンクの実よりも希少な赤黒い実に限りがあるとわかっているから、独占することをどうして当然と言えるのかと疑う。だから今日も、両ポケットに五つずつ入れて、細い枝から這いつくばって幹を抱きしめ降りてきた。ずっと木の陰にいた優子は健が着地する時に、小さく手のひらを広げた。
優子が先頭に立ち、二人は縦に足並み揃えて道路から畦道に入る。人が往来するためにしか利用されていない砂利道は、人がつけた足跡の形にしか馴らされていない。小さなふたりは自然と横並びになり闊歩する。往来の足とは、四本であり、その条は二本である。
乾いた土塊がひび割れて盛り上がる田は夢寐にまどろむ春の農家が雑草だけは抜いて綺麗にしている。その先にはすぐ、夥しい葦の群生。
「なぁー、走ろやぁ」
丈の短いワンピースを翻し、少し先へと踏み出した優子が柔らかな笑顔を向ける。走る気などないのに、いたずらに沈黙を破りたくて。それを解っている健は太陽の眩しさに目を細め、俯く。やや高い湿度と気温を言い訳として、気だるさを正当化させたいのだ。
優子の肩には小型水筒が下がっていて、動くたびに前腰にずれる。振り子のようだ、と健は思った。華奢な体躯は、それならば時計の木枠か。しかし彼女はきわめて自由であり、不規則であった。時計とはどうにも、似つかないような挙動をしていた。
葦はもはや、いちまいの壁であった。優子は葉叢の手前でぴたりと歩をやめ、首すじをすぼめて、自分より頭二つ分背丈のある草の、そよ風にさざめく先を見上げた。健もまた、砂利の小石をひとつ蹴って足を止めた。
「春だ」
努めた甲斐もなく、目を見張る。
その時、田園の先に低くひろがる森の奥で、カラスが波打つように短く鳴いた。じきに夕方が訪れて、二人の影を濃いものにし、また二人の輪郭線を細めていくだろう。しかしまだ晴天は蒼い。葦の群れに近づいた彼女は、たしかに去年よりも、ずっと大きくなっていた。
葦に届く。いつか。彼は優子と、恐らく己れの自然な成長に、木の上で感じたものよりもっと強い痺れを刹那に感じた。それから悔しさや怖れや緊張といった心をゆっくり発した。彼女の自由な肉体が、もしかしたら、やはり時計なのかもしれないと健は思い直した。
「んー?」
「いや、なんでもないよ」
今日は少し暑さをまとった、春の一日である。
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短編「虹」
虹
怒りが熱を持つと知った、視界の揺らぎ。嘲笑が神経を冷ますと解した、指先の痺れ。屋根の先まで平行な空は、鈍色に重くたわんでいる。今にも亀裂が走り、質量のある何かを注ぎ落としそうなほどに。同じ影を纏った生ぬるい南風が膝を撫でて、ややあって頬を掠めた。その心地に半目瞑ればいる。脩が、しかめた眉を押し上げた眼球で、階段に立つ茉侑子を仰ぎ凝視している。
駅舎には二人の他に誰もいない。無人の箱はガラスにくすんだ雲を映すばかりで、案内音声すらない。橋上に止まる足、秩序のない信頼の裏返し。故にここは静謐な憤りと向き合えるのだった。喧嘩は他愛ない、同じ土俵でしか成り立たないと遠い人は言う。また、愛情もくだらない、価値観の違う者たちの傷の舐め合いと遠い人は言う。しかしそれは、あくまで、どこかの昔の話で。
とぐろを巻く、甲高い声の反芻。切り刻むような虚しい反芻。昂る言葉を投げられた、だから歩を止めて対峙し、茉侑子は脩を睨み付けた。なびく短髪の日焼けした茶褐色が、汗ばんだ丸い額を晒し上げている。しっとりした光沢のなさは曇天を差して仄暗い。皮膚を透かした薄い唇、だらしなく見える小さな白い歯。自分の、矯正中のぎざぎざした前歯を舌先で舐めて、茉侑子は鼻で呟いた。
「あんた、ほんと何も知らないね」
雷鳴。
身震いした風は急ぎ足で田園の奥へ、やまなみに向かう。それに引きずられた厚い叢雲は滞って重なるうちに明るみを悪くし、ブスブスと穴をあけて鉛のような雨を降らしはじめた。トタンに軽快な発砲、いとまなく響く殴打へ変わる。地上の興奮か、空の嘆息か、明瞭に聴こえる空気が裂ける音は、とどろく雷を煽って踊り狂う。一帯は、突然起きた嵐に唸った。
ちぎれんばかりに翻るスカアトの裾を押しつぶし、茉侑子は固く目を閉じた。格子から容赦なく吹き込む冷たさに身体をこごめる。くすむ飛沫の中で、流れる稲の波間に落ちんばかりに電線が上へ下へ躍動している。まるで心拍の高い数値を見ている気分で、焦りが息苦しさから漏れる。階段は濡れ叩かれて、山々は濃霧に消えた。世界が少しずつ色彩を失っていく。
「おうい、夕立だな」
叫び声に、怒っていたことをにわかに思い出した。感情は感覚にみるみる溶け出し、今すぐにでも罵りたい気持ちに駆られた。脩がおかしなことを言わなければ、今頃はひとつ早い列車に乗れていたかもしれないのだと。しかし茉侑子は眉をしかめる、はて、なにを言われて昂ったのか。
それどころではない。突風は猛威を振るい雨粒は広がる一方である。鞄が飛ばされないよう、脇に抱え込むと肩を弾かれた。稲妻は近く、青田の柔い緑ににじむ濃い影を閃光でいたずらに断つ。欄干や落書きやポスタアもおなじ暗澹に染まり、濡れそぼつ。茉侑子は下唇を噛んでしゃがみ込んだ。背中と腰に力を入れて、待つことにした。
重なればやがて千枚になり、各々ずれては広がっていくものである。舞いの勢いも徐々に弱まるのを、意外にも転変は意思を固めた途端に一瞬だった。硬直して澄まされた五感が解氷ほどの速度で和らいでいくのをまぶたの裏で感じ続ける。夕立、その二文字。
背中を、軽やかな温みが包み込んできた。茉侑子は驚いて目を開いた。奪われた感覚。至近距離にはしばらく、赤指す額に、紅差す視界。放課後、学校を出てから今は、いつもなら夜を待っている時間で。洗われ磨かれた夕方は、眩すぎるほどハッキリした極彩。
「晴れた、晴れた」
脩は横顔のまま笑った。茉侑子はその頬に噛んでいた唇を寄せた。
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短編「M」
M
尾てい骨から背筋の反り目にかけて微弱な痺れが伝った。腹を殴る圧迫感、へそから指一本分下の位置に気泡を立てるむず痒さが、心臓の指令を破壊させ吐き気のような苦しみを波打たせる。質量のない涙は空虚、それを浮き上がらせた熱いこめかみははて、どこに繋がっているのか。突いて押し込まれた一瞬に、こまかな神経も含めた全身が、揺れる机に置いた一輪挿しのようにカタカタと抗わずとも震え続けた。
樹邑は乾きを嚥下し喉仏を落とした。茅子はその柔らかな動きが化石のように固くなるのを眺め続けて、重たい視線を放り投げた。先には生活の排泄物が多く溜まったゴミ箱があり、まぶたを閉じる理由には満点であったのでそのようにした。しっとり濡れて薄れる暗闇は感触の想像し易い輪郭を次々と掠めて平たくしていく。睫毛が微かな明るみを眼球に押しこめて、眉間が引っ張られる。しかし意識の投擲までもが許されるはずなく、樹邑は関節を解いて身体を崩した。茅子は喘ぎを離して目尻を上げた。
機械さながらの調子で二回三回。熱い手が冷えた肩を掴み、湿った吐息が乾いた上唇に絡まり、厚い踵が平たい甲に重なって世界が回転する。皮膚が触れて肌が溶け合い、あとは描写のまにまにと無い、快感の稲妻と本能に従った行為のフィルム・ロール。右の心臓が内蔵された鼓動よりもずっと速いと思い、二人は同じ口角を作った。そうしてやや左に寄せていた頬を互いに前に向けた。
とっさに閉じる口元に甘噛みする歯。やや引いた腰を抱き寄せる脚。攻防はゆるやかに停滞して、忘れかけていた手のひらを貪る。顎が外れる感覚を持って、樹邑は茅子に愛を吐き出したかった。いつでも折れそうな指をしっかりと握り締めたら。想いを満面に湛え目を開けて、見下ろした茅子が泣いていると気付いた。
「どうした」
「どこにもいかないでね」
生糸は青黒く光って隆起を縫合し、膨らんだむくみに収斂したしわを影にして浮き彫りになった。微笑みに溢れた涙の線は、落ちる行方に迷っていた。間を置かない言葉が夜に染み渡る。樹邑はいつまでも、輝きと滑りの位置がわからない滴を見ていたいと思った。
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現実を疑わない
愚直な言葉を使えば、辛酸を嘗める日々が続いていた。でも何故か、今晩はとても気分が良い。理由は考えないし、この気分にラベルは貼らない。そして何より、現状を疑わない。伝えたいことだけを率直に書けば、じゃあ、僕という作家志望の今後の展望。
幸福を変化を愛する。包み込んで、守ってあげる。だから幸福を利用するのだ。
・月二回、短編作品を上げる
・連載もしたい
・2023年は文フリの参加する
・短編集で書籍出版
不安になっても、つらくなっても、決して疑わない。僕はこの夜の星に誓う。そして大切にする。
短編「キナラ」
キナラ
日が沈めばせめて掴むものをと。もがきながら指先を広げ両腕を振り回す。しかし虚空に誘われるなら体幹を忘れ、自我をも忘れて哀れに転ぶ。そうして子供も大人も一様に泣くのだ、叫びながら、わずかに触れたことのある、温かな手を希いながら。
そのように夜を厭う理由にして、人々は炎を焚き、電気を発明した。今や暗闇に逃げ道はない。ついで、月も明るい。恐れる理由もなければ、不安になって掴む物を探す理由もない。見える、太陽がなくても。南子の部屋もエネルギーの少ないほのかな電灯が点いていて、机やカーテンが灰色の影を落としていた。椅子に座って頬杖をつき、南子は宙に浮いた物質を眺めていた。
規格品でない、何か。三月の苺や高原のチーズ、退屈からの嫌悪、目を見開くような驚き、競争、それらとは程遠い、けれどそれらの元であるような何かは、幻覚である。証拠に、時おり跡形もなく消える。しばらくして物憂さにまぶたが肥えてくると、また浮かんでくる。南子は、短くも長くもない間それを見続けていた。
名称を付けるにはあまりに概念を認知できない。想起するには動きがなく、拒むには音が聞こえない。だが本質を知りたがって椅子から立ち上がり、その立体感や歪みを見つけようとすることは面倒だった。そもそも物質は言語化できる要素すらない。ただそこに在るだけで。
確か、今晩は満天が地上に近づく日だと遠い記憶から聞いた。それから風の無い日でもあると。南子はつむった片目に美しい夕焼けの溶ける午後五時頃に過ごした景色を現像しようとした。まず行き交う自動車の音が生まれ、土手と柔らかな草が生まれ、やはり風はなかった。家の外を思う。それほどに、目の前の幻覚は鈍間であった。無聊のまどろみは蝕むように、糸を張るように。
消える時は本当に一瞬で、感覚は追えない諦めから無視をする。ひらける視界。色彩と空気の鳴り、寒さ、哀しさが鮮明になる。南子は頬杖をやめ、両手を組んだ。冷たかった。見遣れば付けっぱなしだったガスストーブが止まっている。
立ち上がればもう二度とそこに現れないだろう。少し経てばまた、物質は見えてくるだろう。南子はかじかんだ手を擦り合わせて、両目を閉じた。まぶたの裏には夜があって、それからモノクロの室内。誰にも聞こえないように、しかしはっきりと声を上げた。
「さよなら、キナラ」
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