インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「虹」

 

 

 怒りが熱を持つと知った、視界の揺らぎ。嘲笑が神経を冷ますと解した、指先の痺れ。屋根の先まで平行な空は、鈍色に重くたわんでいる。今にも亀裂が走り、質量のある何かを注ぎ落としそうなほどに。同じ影を纏った生ぬるい南風が膝を撫でて、ややあって頬を掠めた。その心地に半目瞑ればいる。脩が、しかめた眉を押し上げた眼球で、階段に立つ茉侑子を仰ぎ凝視している。

 駅舎には二人の他に誰もいない。無人の箱はガラスにくすんだ雲を映すばかりで、案内音声すらない。橋上に止まる足、秩序のない信頼の裏返し。故にここは静謐な憤りと向き合えるのだった。喧嘩は他愛ない、同じ土俵でしか成り立たないと遠い人は言う。また、愛情もくだらない、価値観の違う者たちの傷の舐め合いと遠い人は言う。しかしそれは、あくまで、どこかの昔の話で。

 とぐろを巻く、甲高い声の反芻。切り刻むような虚しい反芻。昂る言葉を投げられた、だから歩を止めて対峙し、茉侑子は脩を睨み付けた。なびく短髪の日焼けした茶褐色が、汗ばんだ丸い額を晒し上げている。しっとりした光沢のなさは曇天を差して仄暗い。皮膚を透かした薄い唇、だらしなく見える小さな白い歯。自分の、矯正中のぎざぎざした前歯を舌先で舐めて、茉侑子は鼻で呟いた。

 

「あんた、ほんと何も知らないね」

 

 雷鳴。

 身震いした風は急ぎ足で田園の奥へ、やまなみに向かう。それに引きずられた厚い叢雲は滞って重なるうちに明るみを悪くし、ブスブスと穴をあけて鉛のような雨を降らしはじめた。トタンに軽快な発砲、いとまなく響く殴打へ変わる。地上の興奮か、空の嘆息か、明瞭に聴こえる空気が裂ける音は、とどろく雷を煽って踊り狂う。一帯は、突然起きた嵐に唸った。

 ちぎれんばかりに翻るスカアトの裾を押しつぶし、茉侑子は固く目を閉じた。格子から容赦なく吹き込む冷たさに身体をこごめる。くすむ飛沫の中で、流れる稲の波間に落ちんばかりに電線が上へ下へ躍動している。まるで心拍の高い数値を見ている気分で、焦りが息苦しさから漏れる。階段は濡れ叩かれて、山々は濃霧に消えた。世界が少しずつ色彩を失っていく。

 

「おうい、夕立だな」

 

 叫び声に、怒っていたことをにわかに思い出した。感情は感覚にみるみる溶け出し、今すぐにでも罵りたい気持ちに駆られた。脩がおかしなことを言わなければ、今頃はひとつ早い列車に乗れていたかもしれないのだと。しかし茉侑子は眉をしかめる、はて、なにを言われて昂ったのか。

 それどころではない。突風は猛威を振るい雨粒は広がる一方である。鞄が飛ばされないよう、脇に抱え込むと肩を弾かれた。稲妻は近く、青田の柔い緑ににじむ濃い影を閃光でいたずらに断つ。欄干や落書きやポスタアもおなじ暗澹に染まり、濡れそぼつ。茉侑子は下唇を噛んでしゃがみ込んだ。背中と腰に力を入れて、待つことにした。

 重なればやがて千枚になり、各々ずれては広がっていくものである。舞いの勢いも徐々に弱まるのを、意外にも転変は意思を固めた途端に一瞬だった。硬直して澄まされた五感が解氷ほどの速度で和らいでいくのをまぶたの裏で感じ続ける。夕立、その二文字。

 背中を、軽やかな温みが包み込んできた。茉侑子は驚いて目を開いた。奪われた感覚。至近距離にはしばらく、赤指す額に、紅差す視界。放課後、学校を出てから今は、いつもなら夜を待っている時間で。洗われ磨かれた夕方は、眩すぎるほどハッキリした極彩。

 

「晴れた、晴れた」

 

 脩は横顔のまま笑った。茉侑子はその頬に噛んでいた唇を寄せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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短編「M」

M

 

 

 尾てい骨から背筋の反り目にかけて微弱な痺れが伝った。腹を殴る圧迫感、へそから指一本分下の位置に気泡を立てるむず痒さが、心臓の指令を破壊させ吐き気のような苦しみを波打たせる。質量のない涙は空虚、それを浮き上がらせた熱いこめかみははて、どこに繋がっているのか。突いて押し込まれた一瞬に、こまかな神経も含めた全身が、揺れる机に置いた一輪挿しのようにカタカタと抗わずとも震え続けた。

 樹邑は乾きを嚥下し喉仏を落とした。茅子はその柔らかな動きが化石のように固くなるのを眺め続けて、重たい視線を放り投げた。先には生活の排泄物が多く溜まったゴミ箱があり、まぶたを閉じる理由には満点であったのでそのようにした。しっとり濡れて薄れる暗闇は感触の想像し易い輪郭を次々と掠めて平たくしていく。睫毛が微かな明るみを眼球に押しこめて、眉間が引っ張られる。しかし意識の投擲までもが許されるはずなく、樹邑は関節を解いて身体を崩した。茅子は喘ぎを離して目尻を上げた。

 機械さながらの調子で二回三回。熱い手が冷えた肩を掴み、湿った吐息が乾いた上唇に絡まり、厚い踵が平たい甲に重なって世界が回転する。皮膚が触れて肌が溶け合い、あとは描写のまにまにと無い、快感の稲妻と本能に従った行為のフィルム・ロール。右の心臓が内蔵された鼓動よりもずっと速いと思い、二人は同じ口角を作った。そうしてやや左に寄せていた頬を互いに前に向けた。

 とっさに閉じる口元に甘噛みする歯。やや引いた腰を抱き寄せる脚。攻防はゆるやかに停滞して、忘れかけていた手のひらを貪る。顎が外れる感覚を持って、樹邑は茅子に愛を吐き出したかった。いつでも折れそうな指をしっかりと握り締めたら。想いを満面に湛え目を開けて、見下ろした茅子が泣いていると気付いた。

 

「どうした」

「どこにもいかないでね」

 

 生糸は青黒く光って隆起を縫合し、膨らんだむくみに収斂したしわを影にして浮き彫りになった。微笑みに溢れた涙の線は、落ちる行方に迷っていた。間を置かない言葉が夜に染み渡る。樹邑はいつまでも、輝きと滑りの位置がわからない滴を見ていたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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現実を疑わない

 愚直な言葉を使えば、辛酸を嘗める日々が続いていた。でも何故か、今晩はとても気分が良い。理由は考えないし、この気分にラベルは貼らない。そして何より、現状を疑わない。伝えたいことだけを率直に書けば、じゃあ、僕という作家志望の今後の展望。

 

 幸福を変化を愛する。包み込んで、守ってあげる。だから幸福を利用するのだ。

 

・月二回、短編作品を上げる

・連載もしたい

・2023年は文フリの参加する

・短編集で書籍出版



 不安になっても、つらくなっても、決して疑わない。僕はこの夜の星に誓う。そして大切にする。

短編「キナラ」

キナラ

 

 

 日が沈めばせめて掴むものをと。もがきながら指先を広げ両腕を振り回す。しかし虚空に誘われるなら体幹を忘れ、自我をも忘れて哀れに転ぶ。そうして子供も大人も一様に泣くのだ、叫びながら、わずかに触れたことのある、温かな手を希いながら。

 そのように夜を厭う理由にして、人々は炎を焚き、電気を発明した。今や暗闇に逃げ道はない。ついで、月も明るい。恐れる理由もなければ、不安になって掴む物を探す理由もない。見える、太陽がなくても。南子の部屋もエネルギーの少ないほのかな電灯が点いていて、机やカーテンが灰色の影を落としていた。椅子に座って頬杖をつき、南子は宙に浮いた物質を眺めていた。

 規格品でない、何か。三月の苺や高原のチーズ、退屈からの嫌悪、目を見開くような驚き、競争、それらとは程遠い、けれどそれらの元であるような何かは、幻覚である。証拠に、時おり跡形もなく消える。しばらくして物憂さにまぶたが肥えてくると、また浮かんでくる。南子は、短くも長くもない間それを見続けていた。

 名称を付けるにはあまりに概念を認知できない。想起するには動きがなく、拒むには音が聞こえない。だが本質を知りたがって椅子から立ち上がり、その立体感や歪みを見つけようとすることは面倒だった。そもそも物質は言語化できる要素すらない。ただそこに在るだけで。

 確か、今晩は満天が地上に近づく日だと遠い記憶から聞いた。それから風の無い日でもあると。南子はつむった片目に美しい夕焼けの溶ける午後五時頃に過ごした景色を現像しようとした。まず行き交う自動車の音が生まれ、土手と柔らかな草が生まれ、やはり風はなかった。家の外を思う。それほどに、目の前の幻覚は鈍間であった。無聊のまどろみは蝕むように、糸を張るように。

 消える時は本当に一瞬で、感覚は追えない諦めから無視をする。ひらける視界。色彩と空気の鳴り、寒さ、哀しさが鮮明になる。南子は頬杖をやめ、両手を組んだ。冷たかった。見遣れば付けっぱなしだったガスストーブが止まっている。

 立ち上がればもう二度とそこに現れないだろう。少し経てばまた、物質は見えてくるだろう。南子はかじかんだ手を擦り合わせて、両目を閉じた。まぶたの裏には夜があって、それからモノクロの室内。誰にも聞こえないように、しかしはっきりと声を上げた。

 

「さよなら、キナラ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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落書き「描写」

描写



 懐に死んでいた煙草をつまみ上げて地面に投げ捨てた。貰い物である。誰もいない岸辺で一緒にいかだを作った男がくれた。フェロの何倍も手際良く働いて、ほとんどの材料を拵えてくれた。出来上がったものは今もまだあの岸辺にあるかもしれない。だが、煙草は要らない。

 ベストが軽くなった気がした。紺の、ナイロンの、無地のベストである。まだ母が手を引いてくれていた頃に、思い出せばそれも海の近くで、じっくり時間をかけて選んだものだった。よく見れば紺のような、上にふわりと乗せた海原の輝きのような色合いの繊維である。貼り合わせてある胸の内側には何でも入れてきた。万年筆、手紙、砕かれた貝殻、そして一本の煙草と。次は、何を入れて歩くのだろうか。

 反転して、鬱蒼とした、陽射し途切れる森の中。木々直線になだれ落ちる沈澱した影の先、小道の終わりにはまばゆい光が溜まっていた。フェロは解っていた、もうすぐ新しい世界が開けることを。岸辺から砂漠に、砂漠から泥地に、泥地から森に出る前に、荷物を整理しなければならなかった。メッセージ・ボトルも駱駝の毛も、古びたのみもこの場所には必要なかったから。そのようにして今もまた、森の外では不要な道具と拾いものを、土の中に埋めていく。フェロは転がった煙草を一瞥した。

 出るまでにあと五十歩もない。リュック・サックを下ろして次々と中身を出す。見返せば、ずいぶんと雑念を詰め込んでいたと思うほど多くのがらくた。何を考えて入れ、何を感じて握りしめたのか。つと顔を上げて振り向けば、望める景色はただ形を彷彿とさせるばかりでひとつとして記憶を語らない。

 痛みや憎しみも。フェロは奥底にあった石で切れた指を舐めながらゆっくり目を閉じ、深呼吸をした。優しい深緑の空気、それから風。この先は灼熱かもしれない、または粉塵にまみれているかもしれない。しかし、何もかもいつかはきっと忘れると信じることは、あまりに儚いなと強く瞑って苦笑した。

 瞳は彩の弧を描き、黙して再びしまい込むと、リュック・サックには半分もの空きができた。



















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