インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「キナラ」

キナラ

 

 

 日が沈めばせめて掴むものをと。もがきながら指先を広げ両腕を振り回す。しかし虚空に誘われるなら体幹を忘れ、自我をも忘れて哀れに転ぶ。そうして子供も大人も一様に泣くのだ、叫びながら、わずかに触れたことのある、温かな手を希いながら。

 そのように夜を厭う理由にして、人々は炎を焚き、電気を発明した。今や暗闇に逃げ道はない。ついで、月も明るい。恐れる理由もなければ、不安になって掴む物を探す理由もない。見える、太陽がなくても。南子の部屋もエネルギーの少ないほのかな電灯が点いていて、机やカーテンが灰色の影を落としていた。椅子に座って頬杖をつき、南子は宙に浮いた物質を眺めていた。

 規格品でない、何か。三月の苺や高原のチーズ、退屈からの嫌悪、目を見開くような驚き、競争、それらとは程遠い、けれどそれらの元であるような何かは、幻覚である。証拠に、時おり跡形もなく消える。しばらくして物憂さにまぶたが肥えてくると、また浮かんでくる。南子は、短くも長くもない間それを見続けていた。

 名称を付けるにはあまりに概念を認知できない。想起するには動きがなく、拒むには音が聞こえない。だが本質を知りたがって椅子から立ち上がり、その立体感や歪みを見つけようとすることは面倒だった。そもそも物質は言語化できる要素すらない。ただそこに在るだけで。

 確か、今晩は満天が地上に近づく日だと遠い記憶から聞いた。それから風の無い日でもあると。南子はつむった片目に美しい夕焼けの溶ける午後五時頃に過ごした景色を現像しようとした。まず行き交う自動車の音が生まれ、土手と柔らかな草が生まれ、やはり風はなかった。家の外を思う。それほどに、目の前の幻覚は鈍間であった。無聊のまどろみは蝕むように、糸を張るように。

 消える時は本当に一瞬で、感覚は追えない諦めから無視をする。ひらける視界。色彩と空気の鳴り、寒さ、哀しさが鮮明になる。南子は頬杖をやめ、両手を組んだ。冷たかった。見遣れば付けっぱなしだったガスストーブが止まっている。

 立ち上がればもう二度とそこに現れないだろう。少し経てばまた、物質は見えてくるだろう。南子はかじかんだ手を擦り合わせて、両目を閉じた。まぶたの裏には夜があって、それからモノクロの室内。誰にも聞こえないように、しかしはっきりと声を上げた。

 

「さよなら、キナラ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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