インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「記憶」

記憶


 すくい上げた一杯の水は、指の隙間から残らずこぼれ落ちて水面という景色に戻った。手のひらはすぐに乾いて、震え、しかし此処に置いて行かれたという虚しさはない。あれは、自分にとって特別な存在ではなかった。偶然に触れ合って、すれ違った。三野は太ももで手を拭うと、あらためて高い高い、直瀑の滝を仰いだ。緻密な白濁の糸が幾重にもなり、太く紡がれていた。
 小学校中学年、理科の授業で勉強した、教科書に描かれている自然の循環を、その図解だけを三野はよく覚えている。海の水が雲になり、雲が地上に雨を降らす。山奥から大きな湖に、やがて川へ。そして海に。光沢紙の一面を、繰り返し指で辿っていた。見えないけれど、地球はたしかに存在していて、きっと果てしなく広い、という事実を知れたことが、当時は嬉しくてたまらなかった。白衣を着た禿頭の教師を廊下で皆が笑っている中で、いつもそのページを開いていた。夏から半年、学年が変わるまで。
 やがて忘れる。教科書の図解だけではなく、目まぐるしく過ぎていく日々に捕まってさらわれた些細な事は、些細と形容されてまぶたの裏へ。二度と触れられなくとも、全てを抱擁するには地球は広すぎると大人になるに連れて理解していった。山も川も海も、ひとつとして腕に収めることが出来ない。
 無力さを知ると、大切な気持ちを知る。矮小な自分に頷くと、ささやかな幸せに跪く。地球に憧れていた少年は、周囲に憧れるようになり、今は胸のうちに想いを馳せて、しかし探究への欲求は変わらない。山を訪れ、川に頼って、海へ赴き、ひとつひとつの光景を巡った。ゆっくりと、あの時の図解を確かな自覚として意識しながら。
 滝は轟音を飛沫に乗せて、黙っていた。呼吸だけを周囲に響かせて、俯く木々に、沈下する空気に対し、居るぞ、と脅かしている様子だった。ふくれた青色と硬質な苔の色を交互に浮かび上がらせては濃い激流に隠して、不変の丸みを加え続ける。舞い上がる冷気は踊るようにして縮まる。
 三野は今から滝壺の縁まで下り、岩場を登るつもりなのだった。石段を這い、高台から眺めやれば、肥えた崖の先は平坦な小川になっている。そこで小石を拾うために、ここへ来た。腰を締めるウェストポーチの中には、今までに拾った景勝地や奥地の小石が入っている。
 勇気は永遠ではない。そして時間は有限である。静寂が気になり出す前に動かなければならなかった。三野は揺れる水面から視線を切り離すように固く目を閉じて、躊躇いなく立ち上がった。背後の草むらを蹴り、足場を見極めながらつま先を跳ねさせて、せせらぎに触れる砂利道まで戻る。左へ向き、巨岩でできたなだらかな曲線の橋を渡れば、苔むす断崖まではすぐだ。
 鳥はおろか、虫さえ近寄らない鮮やかな湿り気に、三野は神聖な意義を感じ取った。見上げれば、観測八米ほど。おうとつの幅が広く、よじ登るにそこまで無理はない。羊歯が伸びきっているのが少し気に掛かるが、掴まなければどうなるかはわからない。
 多くの記憶を知る。地球を巡った雲から降りそそぐ雨に洗われたものには記憶が染み込む。それが、三野が各地の小石を収集する理由だった。全てを抱きしめられなかった三野のひらめきは、執着ほど丁寧でなく、拘泥ほど器用でない、純粋で穏やかなそれは信念である。信ずる力は、人間や周囲と比較せずとも、あらゆる物事に宿る。小石の内側に何かが視えたことはない。だが、心に湧き出る新しい発見は幾度となく得られた。
 それで良い。触れられなくなった過去は優しい風になる。そう考えればこの滝は、さながら忘却を物語っているようだった。滝壺に打ち付けた水は泡となり、遊ぶように底を回って消える。それから光の欠片として浮かび上がり、流れる。見えなくなるまで、時間はかからない。
 強く指先を引っ掛けて、三野は登った。この崖を世界であると信じ、愛撫するように。飛沫が顔を濡らし、随分と呼吸が苦しかったが、足は止めない。三野の肉体は希望に満ちて、少年だった頃の記憶が全身に蘇っていた。だから、もろく崩れる土塊に手を掛けたのを、目の前の景色以外を忘れてしまった三野は、知るよしもなく。














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