インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「純真」

短編「純真」


 いつの間に太くなって、いつの間にひび割れてしまったのだろう。男はベンチに座り、自分の指をさすりながらそう思った。五本の先端はどれも白く硬化し、関節には赤い筋がいくつも刻まれている。こんなに酷くなるまで、一体何があったのか、全く身に覚えがなかった。矢庭に、男の脳内にはこれまでの半生が過ぎり、いつの間に、とはまさしく自分の生き様のことを言うのだろうと、真理めいた結論を浮かべひとり嘲笑った。
 空腹で立てないのだった。祝日の公園には家族連れが多く、男は公園の賑わいで季節や記念日を知る。たまに寂しそうな若い女や男子高校生が、コンビニで購入したおにぎりや惣菜を文字どおり放り投げてくれるが、子どものいる親は近寄らせないよう懸命である。そして今日は、祝日のようだ。木陰の隅のベンチを選んだ。穏やかに広がる晴天が微笑んでいるようにしか見えなくて、憂鬱であるのに感傷に浸りづらかった。
 昨日の朝から食事を取れていない。蛇口の水を飲んでごまかしていた。しかし老いもあってか、夜には体力が尽きて、立てなくなり座った。曙光が膨らむ風に力を持たせ、黎明が新しく空を塗り替えて、影が伸びはじめた頃、ベンチを移った。道ゆく人のように、生きようとする気力も、植えられた大樹のように、死に在ろうとする気力も、今の男にはない。ただうつむいて、汚れた指先をいじりながらため息をつくしかない。日は巡り、風は通り過ぎて消えるが、男の生命の時間はいつからか止まっている。

「おじちゃん、なにしてるの」

 まだ初い、覚えたての柔らかな声色が近くて、水をかけられたような気持ちで顔を上げた。派手な色をしたビニールボールを両手で大切に抱えた幼女が、ブラウンの透き通った瞳の焦点を男の目に合わせている。おはじきのようだ、と思った。そして激しい動揺をどう扱っていいかわからず、暫くまばたきだけで自己を表現し、だが幼い表情は変わらず純真な疑問を呈している。
 声をかけられるのは、この公園に来てから初めてだった。そして一度も触れたことすらない同じ地上にいるだけの存在からの侵入。男は視線だけで辺りを見回したが、親らしき人も、また自分を蔑視しているような人もいなかった。木陰の黒い形があり、土があり、幼女がいて、吐く息がいちいちうるさい。困惑が、隠せそうにない。
 男は脳裏に幻想を見る。急に、生きていることが嫌になってきた。様々な予感がするが、それらはほとんどが激しい苦しみを伴うものであった。早く消えてくれと願うが、声に出すのも恐ろしかった。

「君は?」

 ようやく絞り出した言葉を殴るように、幼女は笑顔で答えた。大人より大きな声が、敷地に遠く響いた。

「遊んでる!」

 莞爾として笑い、年老いた者のように顔にシワを寄せた。くしゃくしゃになるほど、まだ骨も肌も形成されていないのだろう。しかし全身、何もかもが得意げの様子だった。男が固まったまま何も答えないでいると、すぐボールを片腕の中に移して、小さな手のひらをはためかせながら、広場の方へ走って行った。後ろから、小走りに叫ぶ男女の声が聞こえてくる。
 一日に一度しかない噴水が上がって、近くを通った人々がわっと歓声を上げた。男はそれで今一度幼女の姿を追ったが、ボールに夢中な姿を見届けると、すぐに目を逸らした。
 男はゆっくりと背筋を伸ばし、深呼吸のあと、空を見上げた。一筋の細い雲がたなびいていて、パンが食べたいと考えた。何かを忘れたような気がしたが、きっと西に傾く太陽が引きずっていった。














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