インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「窃盗犯」

短編「窃盗犯」


 左足を強く打ちつけたが愚図ついている場合ではない。信乃は大股を開いて地面に手を付き体勢を整えると、すぐに下り道を疾走した。ワイドを映していたテレビの大音量が耳朶を揺らす、心拍を脅かす。呼吸が切れ切れになってそれが耳からとれてもなお恐ろしく感じるのは、死んだような大人達の声が緊張感に絡みついて離れないから。こそばゆい腹の下も、痛む左足も関係のない体の一部のように感じながら、静寂に埋もれた高原を駆け抜ける。
 高原地帯のQ村には小さな商店が一つ、高速の近くにコンビニが一つ、たったそれだけしか販売店がない。商店は腰の曲がった老婆がひとりきりで営んでおり、朝は日が昇ったら開店、夕は暮れ始める前に閉店する。足繁く通う村の住人と観光や物見遊山のついでに立ち寄る客がほとんどで、特べついつも賑わっているわけではない。そんな店で窃盗が起きた。囲うように密集する山の午睡も深まった時間帯である。
 泥棒。痩せた少年のタンクトップの下には袋の菓子パンが三つ、へそのあたりでカサカサ煩い音を立てている。手書きの値札シールには、いずれも「六十円」とマジック・ペンで書かれてある。信乃は憎悪を睥睨するように棚を一瞥し、店の中でも安価なパンを選んだ。決まったら呼び付けるようにと老婆に声を掛けられ、偽りの優しい返答をして、テレビの賑わいがよく響く沈黙を静かに狙った。

「はぁっ…!はっ…!」

 肺が喉元まで込み上げてくるような強い圧迫感に頭が痛くなった。立ち止まったら両脚が震えて動けなくなることをよく知っているから、速度を落としてゆっくり歩幅を狭める。尾根から下ってきた生温い風が小径に広がり、うねりに重たさへと変わって背中を押すのだった。閑散とした山懐に抱かれて、村は厳かに黙っている。信乃はそれに全身を俯瞰されている気がしてならなかった。冷たい石垣の奥の肥えた林が、薄い曇天の裏側で光る太陽が、錆びついたトタン屋根から煙を出す家の主人が、自分の心理までもを見透かしているような感覚でならない。
 泥をかぶった速度制限の標識を過ぎ、なだらかな勾配を駆け下りて、清流のすべり落ちる岩場を跨ぐ小さな橋を渡る。軽やかなせせらぎの音に、冷えた水が欲しくなった。声帯が切れそうなほど走って、咳すら苦しいくらい乾いている。信乃は仕方なく唾液を飲み込んだ。標識は、少し色褪せていた。誰も文句を言わず、誰も立て直そうとはしない。遠い日差しにぬらついて、ただそこに影を落としていたのだった。
 山間、果てしなく深い。工場の跡地で、二匹のアゲハチョウが触れ合わずに戯れていた。その奥に伸びた雑草が溢れるように緑を満たしていて、信乃は悔しくてたまらなくなった。難しい英語の役職がテロップに書かれた男の嘲笑が、否、あの番組に出演していたすべての人の存在が頭に巣を張って離れない。こんな鬱蒼とした景色よりも、もっと美しいスーツを着ていた。
 だが大きな車のエンジン音が聞こえて、信乃ははたと考えを止めた。耳を澄まし、山岳部の方角から来ていると確信すると、途端に体中に悪寒を覚えた。追手が、来たのかもしれない。老婆が車に乗れなくとも、近所の住民に通報したのかもしれなかった。
 信乃は再び走り出した。すると上半身を曲げた勢いで、パンが二つ落ちた。しかし信乃は、最早パンを拾っている余裕がない。逃げなければならない罪を犯した以上は、成し遂げるしか他に方法はない。工場の跡地を越え、川のそばを疾駆し、信乃は自分が何をしたかったのかわからなくなって涙をこぼした。ほろほろと、止まらない。容赦なく車はどんどん近くなってきて、爆音はまるで怒りをにじませた様子だった。走ってもすぐ心拍に苦しさを嗚咽し、もう諦めなければならないと思った。前が見えなくなって、立ち止まる。
 左ハンドルの高級車がスピードを上げて信乃を通過していった。助手席から落ちてきたお菓子のゴミが、足元まで転がってきた。
























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