インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

厳選・短編八作品

ご閲覧ありがとうございます。

 

今まで書いた小説を厳選し、短編八作品を選びました。これを押さえておけばだいたい僕の作風を知れます笑。


では、お好きなものから、ごゆっくりどうぞ。

 

1 短編「早朝」

2 短編「十五」

3 短編「時間」

4 短編「新湯」

5 短編「山道」

6 短編「勾配」

7 短編「夢寐」

8 短編「目糞」

 

 


【厳選短編1】


短編「早朝」

 


 静けさの重い山間の小径にて、囀りを終えた小鳥が杉林から飛び立ち、なめらかな太陽と入れ替わった。透きとおる新しい光は、露に色を差し、土の柔らかさを変え、流れる空気をのろたくし、毎秒移りゆく。波打つ呼吸をはじめる地上に、小さな生命は目を覚ます。そして本能のままに動き出す匂いと記憶に、多くの眠っていた野生が研ぎ澄まされた獣心になり、刹那の沈黙を大きく揺るがした。
 小径の低く落ちてゆく先にたふたふと震える川面は気候よりも早く、そのとがった清流をぬるくして膨らませた。生まれたばかりの目が見えない探求心のためにか、せせらぎの音もより深く変わる。小さな森林地帯を支える空気をいっぱいに含んだ孤独な崖が、躊躇いがちに水滴を吹いて音もなく川面に落とす。山の息吹は一切の新生というよりかは、眠りからの覚醒、あるいは静止から開放された、溶け出すような鼓動の高鳴りを見せるのだった。
 すべり落ちる冷たい風と舞い上がる活発な風がぶつかり合い、萌ゆる緑の表面は早くから湿り気を帯びている。狭苦しく起伏している木々のざわめきもなく、東の地平線を発って間もなく物質的になった日差しは平等に倒木の間隙に入り込む。快晴、猛暑。まどろみはさっぱり消え、みなぎる動力は滾々と止まることはない。
 それは乱れのない精緻なまでの朝。険しい道の尾、ふもとでエンジンが轟く。その停留所始発のバスが、気だるげに発車時刻を待っていた。車は、今から誰一人乗らない身軽さをもって、近くの駅まで向かう。初老の乗務員は帽子を目深にかぶり、自分しかいない世界であくびを連発していた。何の物語もない。ただそのように過ぎゆくだけであった。
 停留所には乾いたベンチが二つ並んでいた。背もたれに書かれた広告はかすれ、スチールの脚は腐りかけている。公衆便所の前にあるため、片方には蚊柱があった。バスの振動も野鳥の旋回も、群れには及ぶことではなく、まるで快も不快もなく規則的に縦横を巡っている。一匹の蜘蛛がそのそばを這って通り、蚊柱の前で止まった。息をひそめた様子だった。
 やがて、定刻よりも一分ほど早く、バスはドアを閉め、砂利をゆっくりと跳ねて発車した。

 

 

 

 

 

 


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【厳選短編2】


短編「十五」

 


 懐中時計をジャケットの内ポケットにそっとつまみ落として、斉は車窓のへりに肘をつきだらしなく顎を突き出した。ホコリまみれのガラスに映っているのは線路を囲う景色ではなく、うなだれている年老いた夫婦とその奥で新聞を読む男、そしてつまらなさげに目を半開きにしている少年、斉であった。列車はQ駅を発車後すぐトンネルへ入り、それからずいぶん長い時間、暗闇の中を走ったり止まったりしている。乗客たちは皆、本や機械を片手に無聊を上手く利用していたが、斉だけはただ時計を眺めるばかりで落ち着きがなかった。
 停止信号を報せるだけの無愛想なアナウンスが響き、斉の眉間にきょう何度目かのシワが寄った。しかし数分後に上り列車が通過することを想像すると、幾らか気が楽になった。先ほどから永遠を感じるほど変化のないこの空間に、一瞬ではあるが稲妻が落ちるのだ。そう思い、斉は初めて焦りに苛まれている自分に気がついた。
 少年は誕生日だった。ショルダー・バッグにおむすびと時刻表を入れて、懐中時計を胸にしまい、鈍行を乗り継ぎ南北を縦断して今、未だ見たことのない日本海へ向かおうとしているのだった。なぜこの列車に乗っているのか、斉はしかし、日本海を見たい故に時刻と路線を選んだわけではなかった。列車が完全に静止してしばらく、一部分だけよれた時刻表の本をバッグから取り出して、爪をさしたページを開く。赤いペンで丸が描かれた箇所をじっと睨んでいるうちに、上り列車が勢いよく通過した。斉は顔を上げたが、時刻表が床に落ちてしまい、慌てて拾い上げていると窓はもとの暗闇に戻っていた。
 斉は再び肘をついて、目を閉じた。ほとんどの人間はまぶたの裏側を見ていると、怒りや悲しみなどの感情と冷静に向き合おうとするものである。この地に来たわけを、落ち着いて考えようと思った。
 きょうは特別な一日にしたかった。斉はプレゼントやお祝いの言葉を周囲からもらえない代わりに、神様から自由を与えられたのだと信じて家を出た。孤独な少年は、自分で自分を祝うと決め、様々な手段を悩んだ。そしてもっとも良い方法を思いついた。それは記念と経験にもなり、また発見にもなるであろう十五歳の瑞々しいひらめきであった。
 列車が動き出し、車内は大きく揺れた。男は新聞を読み終えた様子で、足を組み眠り出した。年老いた夫婦はふたり同時に顔を上げたが、周囲を見回してまた背中を丸めた。発車直後はゆっくりと進んでいたが、次第に加速し、ゴウゴウとうなりを上げて走行する。斉は予感がして、懐中時計を見た。十五時十分を過ぎた時間だった。突然、興奮と緊張感が全身を襲った。
 つまらないと思っていたのに、希望はもう、こんなにも早く訪れるのか!
 斉は懐中時計と時刻表をバッグに入れ、窓に顔をぐっと近づけた。間もなく、トンネルを抜ける。そうしたら青々とした日本海がすぐ下に広がっているはずだ。しかも、ただトンネルを抜けるわけではないのだ。
 真っ暗な窓の外を眺めながら、想像することは祝福がそこにあるかどうかだった。斉は、無言のプレゼントがとても華やかであることを、瞳では素知らぬふりをして、心のなかで想像しみだりに祈った。明るい光がトンネル内を徐々に汚していく。とどろく車輪は減速を始め、車体を安定させる。
 そして、バッグの底で針を鳴らす懐中時計の時刻は、十五時十五分十五秒になった。斉はもはや本来の目的を忘れ、体を反らしてその瞬間を見た。雨が降り注ぐ曇天の日本海は、海面をけぶらせて、のったりと動いている。地図では大きな島が横たわっていた地平線の果ては、霧で何も見えない。
 それは、斉がこの数分間で期待していた祝福とは、程遠い景色であった。しかし斉は窓から顔を離し、幸せを感じた。トンネルを抜けるまで、たしかにふてくされていた少年は、新しい現実を受け入れられる大人になったことを確信したからだった。

 

 

 

 

 


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【厳選短編3】


短編「時間」

 


「じゃあ……」


 美しい、と思った。実際それは今までで一番の、傑作ともいえる完成度だった。真知子は興奮ではやる鼓動を、膝頭でぐっと押さえつけた。それから固く握りしめた手が震えないように脇を閉じた。
 慎重にはけを落とす。ねっとりと絡まる真紅は、かき回すとその独特なにおいをふわりと漂わせた。持ち上げて、びんの縁に擦りつけて、中指の爪の上にそっとつけた。


「また、ね」


 失敗。爪のそとにはみ出した。真知子はその時初めて顔を上げ、玄関に立つ男を見た。男は靴べらを置いて、振り返らずにドアを閉めて行った。重たげな静けさがすれ違いに舞い込んできた。
 真知子は男の足音を見送る間もなく、すぐに視線を爪の先に戻した。そして縦向きにはけを押しつけた。しかし、今の一瞬のあいだに乾いてしまったマニキュアは、伸びきらずに跡を残した。
 ティッシュ・ペーパーを二枚取り、指についた真紅を拭く。だがそれも乾いていて上手くぬぐえなかった。ティッシュを捨て、真知子は首をかしげて、先程男がなんと言っていたか思い出そうとした。それはこの憎い気持ちと向き合うために必要なことだと思ったからだった。
 くたりと腕を降ろした。床についた左手の、人差し指の爪だけが真っ赤にキラキラと輝いていた。

 

 

 

 

 

 


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【厳選短編4】


短編「新湯」

 


 新助は息継ぎもせずに、持ち上げた桶の波紋の粗い水に勢いよく顔を沈めた。痛みを感じるような冷たさと胸の苦しみに背筋が強張る。まぶたをシワだらけにして唇を直線に、数秒。命にすがりついて酸素を口いっぱいに交換させ、きらきらと輝くいびつな視界を開いた。
 最後に軽く体をすすぎ、桶を椅子の上に置く。全身をくまなく、綺麗に洗った。排水溝に向かう細い流れの音だけが、裸の新助をおきざりにして忙しなく消えてゆき、冷えきった室内はもうもうと湯気を立たせて燻る。椅子を足先で奥へと押し込み、タオルを力強く絞った。全てが洗練された理想となって、新助は、フフと笑った。一人きりの空間に、気が緩む。
 すべりながら電灯にぬらつく水溜りはねさせ、つま先を交錯させながらタイルの上を慎重に歩いて、視線は真っ直ぐ。新助は段差を上がると思いきり引き戸を開けた。舞い込んだ風は、不思議と寒くなかった。緑の彩りにあえて目を伏せ、行き着くままにザラザラした柔らかな石段を上がる。新湯は静かにそこにあった。
 新助はかかとから、果実を踏むかのごとくゆっくりと、湯の中に体を低めていった。そして肩の上までその温かさと安心感を溶かすと、つま先を丸めて崖の方へ前進し、起伏の険しい地平線の筋と朝日を目に焼き付けて、すぐにうなだれた。
 湯は絶えず重たい気泡を立てては広がり、屋根と岩とを生き物として映している。何故ならそこにあるものは、新助の体の他に、たったそれだけだからだ。新助は、もう一度苦しい息を意図的に吐いた。そして両腕を水面から振るいあげ、いっぱいに背伸びをした。

 

 

 

 

 

 

 


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【厳選短編5】


短編「山道」


 自分の背丈より遥かに高い勾配が、崖はぬめりの帯びた緻密な土塊を剥き出しにしてすぐ目の前に開かれていた。山路はへこむように折れて鋭い道を走らせ、滝治はほとんど腹這いの姿勢でその歩を進める。中腹にも至らない、既に喉は渇ききって、息は濁った音が混じる。この崖を乗り越えればきっと楽になる、そう幾度も自分に言い聞かせ此処までよじ登ってきた。
「よいしょ……」
 せせらぎは連なりの下、足元にすら今は届かず、鳥は午睡の時間か、偶に籠もった鳴き声を上げるだけで山の中は閑かであった。だから滝治は自分を励ます独り言や激しい呼吸が耳奥にこだまするのをよく理解できるが、妙に恥ずかしく寂しい。足を突き出せばそうするほど懊悩に似た息苦しさが全身の疲れに変わっていくのだった。
 集落に降りて、山道に入るまでは決意固かった。日差しを遮る湿っぽい木立、ふくよかな川の水面が光を散りばめていた。空気は澄み、道は広い。滝治はとても自由だった。自由はきびしい意思をいくつも生み出し、ひとつの意志に変わって胸の中に深く刻まれた。
 一歩が大きいのか小さいのか、頂を知らなければ判らない。ゆるやかな道も、険しい道も、そこに立ちはだかるならば越えていくか、諦めてしまうしかない。想像は絞られ、膨らみ、感情を生み、現実をよぎらせ、やがて萎む。
 左には白濁の飛沫舞い上がる、廻りの悪い岩陰の清流、右には切迫し聳える崖のおうとつ。天候は乾いた涼風のさわやかな午後で、良い登山日和。しばらくして小滝に辿り着き、過ぎては杉の叢、蜂の住処を小走りに抜け、体中に熱がこもる。
 滝治は剥き出しの崖を踏み越えると、立ち止まって首から下げた水筒を呷った。冷たい水が喉の中を潤す間もなくどんどん体内へ落ちていく。足がガタガタと震えているのが、いやに気になった。飲み干せばキャップを締め、先の見えないうねりの短い坂を見上げる。
 変化、進退、人生に何を求めているのか。一瞬の間、滝治は考えて、すぐに出る正解は、進むしかない。
「よっこいしょ……」
 背をかがめて、腿裏の力を精一杯に込める。腕を振るう幅は最小限に、容赦ない傾斜を掴む。吹き出る汗を拭う余裕も、乱れた呼吸を整える方法を考える暇もない。しかし滝治ははっきりと、自分に限界を感じていた。それはただ、経験してきただけの容量をもった限界。
 無風の山は、眠っているかのように閑かだった。うごめいているのは滝治の肉体だけで、けれども生き物を抱く大自然というものは、つねに変わることはない。
 滝治は滴る汗の跡を見ながら、萎んだ想像を振り返る。引戻れば自分は、ただもとの鞘に収まるだけだと思う。ここを越えるまで自分は、一体何を信じていたのだろうか。
 鳥が鳴いた。滝治はつられて顔を上げた。叢林はそこだけ、ただれたように空を映していた。幾重にもなった脈続くなだらかな緑の雲海、その先端には霞んだ町。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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【厳選短編6】


短編「勾配」

 


 途中、まだ灯りのついている小さなたこ焼きの店に寄って道を聞いた。やはり線路を伝って駅を左に曲がり、すぐに道路を渡って左へ、それから住宅街に入っていくと言う。観光案内所と大きく書かれた看板の、古い建物が目印だと店先の女は東に言い、それから開けっぱなしのパックに入っていた萎びたたこ焼きを指さして、持って行くか尋ねた。東は丁寧に断って、リュック・サックをせおい直しシャッター街の真ん中を再び歩き出した。冷え切った夜風のひどいにおいに些かの頭痛を起こながら。
 標高を読めばまだ日のある時間ならこのシャッター街からでも目的地は見えるはずだが、煌々と目を眩ませる街灯があまりに視点をぼやけさせて慣れるものではない。だから東は、ただ真正面を見つめて進む。立ち止まってその時を待ち、確認するのは気楽であろうが本当に気休めにしかならない。頬のあかぎれを爪で引欠くのも無意識に、まぶたの裏は感動の目前を造り上げる。
 信号を渡ると線路が見えた。そのままにぎやかに彩られた駅へ向かう。すぐに「近道」と矢印とともに書かれた案内板に従って狭い路地に入る。すると若い男女が向き合って何かを話していた。東は男の方の顔を一瞥し、堅く双眸を閉じて通り過ぎた。
 祭りのようにごった返す車をすり抜けて、左。古い道路を青信号を少しばかり待てずに渡って、さらに左へ。行き交う市街地の栄えた明るさの中で、教えてもらった看板だけが死んだ者の表情を照らされていた。そのまま住宅街へ入る。
 静かで、真っ暗であった。東はしばらく星や月を見れるのに時間をかけた。家は密集していて道はとても細く、頻繁に往来する車が一台通る度に立ち止まる必要があるほどだった。しかしここへ来るまで、東はひたすら前を向いて歩いてきた。すべてが無意識のまま。ついに夜目になるとその暗さからようやく目的地が眺められた。ずいぶんと高い。
 そしてあっという間に東は坂の下に居た。徒歩約二十分と経ったところ。緩やかに伸びたそれは折返してからが急勾配になっていて、剥き出しの崖からガードレールが影を伸ばし、蔦模様に倒れかかっているのだった。東は飽きるまで首を回すとサイドポケットから水筒を取り出して呷った。そして息を整える間もなく一歩踏み出した。
 東はつまらない坂に、この地に来るまでの様々な苦しみを視線で描いた。そしてすぐに涙をボロボロと流した。それは解放を願う力よりも懐抱を想う祈りに近いものであった。折返し地点で自分が何を考えていたのか解らなくなってきた。だがそれも人生であると知っている東は素直に涙するだけだ。
 歩くごとに寒さと体温で手足の感覚がなくなっていくのがわかる。登る登る。息を吐いて、唾液を飲み込み、また息を吐いて、唾液を作って飲み込む。勾配はいちど広がり、しかし今度は直線に伸びている。
 ためらわずに東は登った。晴れた夕暮れのように、苦しみに希望の光が滲み出す。体温が熱くてマフラーを解いた。耳あてを外した。そして東は同じことを繰り返しながら、勾配を登りきった。

 


「わあ……」

 


石段を少し登って絶壁から見下ろしたのはかつての自分が立っていた過去。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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【厳選短編7】


短編「夢寐」


 揺蕩う意識の水面に重たい石の嘆息を落とし、浮かび上がってきた泡沫の声。隼は純白のシーツをこぶしの影で汚していることに気付かない様子で、掴む力をいっそう強くし鼻を鳴らした。ブタみたい、と頼子は思った。実際、呟いたらなにもかもが消えてしまうから、そう思うだけで音波にはしない。溜め込んだ二酸化炭素を大きく吐いたが、隼はただ電灯のほのかな蛍光色に溶け込んでいるばかりだった。
 漆黒の睫毛は乾いたまぶたと涙袋をていねいに縫って、薄い唇の隙間からは、前歯がぬらついて覗いている。芝のような眉、なだらかな鼻。一切は造形のまにまに、呼吸に合わせて動いている。頼子は目が痛くなるまでまばたきもせずにじっと見つめ、それから静かに立ち上がった。狭い部屋の壁に薄暗い後ろ姿が伸びた。
 泥の中にいる眠り姫は、どんな夢を見ているのだろう。頼子はテーブルに腰掛けて、布団に埋もれる隼を見下ろす。いつも考えるのだった。話しかけても、頬をつねっても、背中を覆っても反応がない。よく晴れた日の散歩道で、隼は病気だと笑っていた。眠ってしまう、病気なのだと。
 いつからか、物音を立てないように、身体的な反射を落ち着かせるように、気をつけながら生活するようになった。しかし時おり、寂しさを抑えられなくなってわざと行動を取る。そんな場合に限って隼は起きない。愛しさが増すだけの一瞬である。
 隼はいびきをかき始めた。柔らかくかぶさった布団が、膨らんで、萎む。頼子はその動きをいつまでも眺めていたいと思った。もうそろそろ食事を作らなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 


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ナルコレプシー(過眠症)の男性とおつきあいをしている女性のお話です。夢寐とは、眠って夢を見ている間のこと。

 


【厳選短編8】


短編「目糞」

 


 駐車場から坂の上を振り向けば、連なる山々には煙雨が立っている。雲の流れに沿ってひだ状に濃淡を織りなす自然の陰影は、明るさがなくともくっきり見える。頂は薄暗く、すべり落ちるほど鮮やかに爛れる。ジャンパーのポケットに片手を突っ込み、曽宇は車のロックも忘れて、暫くその様子を眺めていた。勇壮な景勝の、情景の索漠。語らうは黙す。送達は吐息に任せて、目を瞑れば自身の傲慢さが解る。冬が溶けはじめる時期でも紅みはあるのだな、と感慨深く、妙にハッキリと目に映る近く車や手すりが険しい勾配と相対的だった。
 ふらりふらりと歩き出す。公衆便所のある土地までが駐車場で、土汚れの目立つ坂道がうねりをなだらかに五分ほど続く。脚に力を入れて、右手に傘を回し、左手はポケットの中の鍵をいじくりながら逡巡するような足取りで歩く。鬱蒼とした木陰でほとんど濡れていないが、滑ったら派手にころぶくらいの急な斜面。全身に集中して降りていく。
 左、枯れ葉に埋もれた小道が雑木林につたって伸びる。曽宇は背を屈めて登る。葉はたっぷりと湿っていて、歩くたびに靴が子供の笑声そっくりに鳴く。草木は次第にせばまって崖となり、緻密な森林を表情に、霞んだ山が切迫して、幽かに滝の音が聞こえてくる。特だん険しいわけでもないが、熱くなって汗が出てきた。歩きながらジャンパーを脱ぎ、肩にかける。
 登りきると、左手に小屋があった。郵便ポストが手前にあり、窓の奥側、大きな木目調の看板には「cafe」と書かれてある。曽宇は一度立ち止まってシャツの襟を整えた。早まる鼓動に胸をぐっと押さえつけて、ため息一つ。まっすぐを向いて進む。ミルフィーユのような触りの不思議な砂を蹴って、正面玄関、扉を開けた。


「いらっしゃい…」


 鈴が鳴り響き、余韻の先に美都子はいた。上体をこちらに向けて、見つめる瞳に微笑のゆがみ。曽宇は安堵の表情をこぼしてマスターを一瞥し、軽く頭を下げた。だがマスターは目を伏せて皿を磨いていた。先まで暗いと思っていた外の明るさは、席に座ると眩しいくらいだった。


「見て、渓谷みたいじゃない?」


 埃で汚れた窓から、遠くに滝のような白い濁りが見える。双方の崖には木々が力強く根を張っていて、粉々になったきらめきが細い川面を烟らせている。いつまでも眺めていたいほど、美しかった。
 美都子は微笑みを崩さず、体勢を戻した。何かを考えている様子は全くなく、ただ景色に心を溶かしていた。しかし、曽宇が思い切って勇気を吸い込むと、振り向いて驚き、その顔にそっと、手を伸ばした。


「あら、目やに…」


 優しい声はわずかに震えていた。視線を逸らすと、小屋の傍らにある名も知らない木から、葉が一枚はらりと落ちた。それはこの冬の、最後の葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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