インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「目糞」

短編「目糞」


 駐車場から坂の上を振り向けば、連なる山々には煙雨が立っている。雲の流れに沿ってひだ状に濃淡を織りなす自然の陰影は、明るさがなくともくっきり見える。頂は薄暗く、すべり落ちるほど鮮やかに爛れる。ジャンパーのポケットに片手を突っ込み、曽宇は車のロックも忘れて、暫くその様子を眺めていた。勇壮な景勝の、情景の索漠。語らうは黙す。送達は吐息に任せて、目を瞑れば自身の傲慢さが解る。冬が溶けはじめる時期でも紅みはあるのだな、と感慨深く、妙にハッキリと目に映る近く車や手すりが険しい勾配と相対的だった。
 ふらりふらりと歩き出す。公衆便所のある土地までが駐車場で、土汚れの目立つ坂道がうねりをなだらかに五分ほど続く。脚に力を入れて、右手に傘を回し、左手はポケットの中の鍵をいじくりながら逡巡するような足取りで歩く。鬱蒼とした木陰でほとんど濡れていないが、滑ったら派手にころぶくらいの急な斜面。全身に集中して降りていく。
 左、枯れ葉に埋もれた小道が雑木林につたって伸びる。曽宇は背を屈めて登る。葉はたっぷりと湿っていて、歩くたびに靴が子供の笑声そっくりに鳴く。草木は次第にせばまって崖となり、緻密な森林を表情に、霞んだ山が切迫して、幽かに滝の音が聞こえてくる。特だん険しいわけでもないが、熱くなって汗が出てきた。歩きながらジャンパーを脱ぎ、肩にかける。
 登りきると、左手に小屋があった。郵便ポストが手前にあり、窓の奥側、大きな木目調の看板には「cafe」と書かれてある。曽宇は一度立ち止まってシャツの襟を整えた。早まる鼓動に胸をぐっと押さえつけて、ため息一つ。まっすぐを向いて進む。ミルフィーユのような触りの不思議な砂を蹴って、正面玄関、扉を開けた。

「いらっしゃい…」

 鈴が鳴り響き、余韻の先に美都子はいた。上体をこちらに向けて、見つめる瞳に微笑のゆがみ。曽宇は安堵の表情をこぼしてマスターを一瞥し、軽く頭を下げた。だがマスターは目を伏せて皿を磨いていた。先まで暗いと思っていた外の明るさは、席に座ると眩しいくらいだった。

「見て、渓谷みたいじゃない?」

 埃で汚れた窓から、遠くに滝のような白い濁りが見える。双方の崖には木々が力強く根を張っていて、粉々になったきらめきが細い川面を烟らせている。いつまでも眺めていたいほど、美しかった。
 美都子は微笑みを崩さず、体勢を戻した。何かを考えている様子は全くなく、ただ景色に心を溶かしていた。しかし、曽宇が思い切って勇気を吸い込むと、振り向いて驚き、その顔にそっと、手を伸ばした。

「あら、目やに…」

 優しい声はわずかに震えていた。視線を逸らすと、小屋の傍らにある名も知らない木から、葉が一枚はらりと落ちた。それはこの冬の、最後の葉だった。
















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