インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「虹」

虹 怒りが熱を持つと知った、視界の揺らぎ。嘲笑が神経を冷ますと解した、指先の痺れ。屋根の先まで平行な空は、鈍色に重くたわんでいる。今にも亀裂が走り、質量のある何かを注ぎ落としそうなほどに。同じ影を纏った生ぬるい南風が膝を撫でて、ややあって頬…

短編「M」

M 尾てい骨から背筋の反り目にかけて微弱な痺れが伝った。腹を殴る圧迫感、へそから指一本分下の位置に気泡を立てるむず痒さが、心臓の指令を破壊させ吐き気のような苦しみを波打たせる。質量のない涙は空虚、それを浮き上がらせた熱いこめかみははて、どこ…

現実を疑わない

愚直な言葉を使えば、辛酸を嘗める日々が続いていた。でも何故か、今晩はとても気分が良い。理由は考えないし、この気分にラベルは貼らない。そして何より、現状を疑わない。伝えたいことだけを率直に書けば、じゃあ、僕という作家志望の今後の展望。 幸福を…

短編「キナラ」

キナラ 日が沈めばせめて掴むものをと。もがきながら指先を広げ両腕を振り回す。しかし虚空に誘われるなら体幹を忘れ、自我をも忘れて哀れに転ぶ。そうして子供も大人も一様に泣くのだ、叫びながら、わずかに触れたことのある、温かな手を希いながら。 その…

落書き「描写」

描写 懐に死んでいた煙草をつまみ上げて地面に投げ捨てた。貰い物である。誰もいない岸辺で一緒にいかだを作った男がくれた。フェロの何倍も手際良く働いて、ほとんどの材料を拵えてくれた。出来上がったものは今もまだあの岸辺にあるかもしれない。だが、煙…

短編「狐の嫁入り」

狐の嫁入り 高低不ぞろいの苔むす石段も、その隙間に膨れていた山蛭の死体も、儼乎な威風をまとう鳥居も、目に焼き付けた数分間のそれらを大切に抱えようとしていたが、飲みかけのペットボトルとともに落としてしまった。草の根に入ったほす、という音の二秒…

短編「全」

全 夢寐、或いは、陶酔。許容と否認、掌握と投擲、或いはまた、辿ること。押してから撫でること。辞書の中で生きているようだ、と朋子は思い、泡の嘆息をもらした。此処は海底、言葉の深淵。酸素が吸えず苦しくて、胸の辺り、服をギュッと掴んだ。 何に触れ…

擱筆「未知のアンサー」

タイトルを掲げてから約三週間、とてもじゃないが、書けなくなった。何を表現したいのかも、よくわからなくなった。芸術家においては、そんな理由で断念にするなんてよくあることだ。だが僕は無念でならない。 美しい言葉を散りばめた。未完成のままだが、失…

詩「不足」

不足 憎むものが 多すぎて 愛するものが 少なくて私は 呼吸を詰まらせた酸素は愛 酸素不足世界は何でできている?って ずっとずっと気になってたのわかった時に 私は息の 嘘に気づいた 理解した憎しみはどれだけ遠くても 近くに見えて 見えてしまって 愛しさ…

短編「嫉妬心」

嫉妬心 「大きな半月ね」 握り潰されたような心臓の感覚にわずかにのけ反って、浩史は眠気で膠着していた視線を少しずつ左に向けた。白っぽい月明かりに照らされた優布子の静かな横顔は、何も語らずに、漂う暗夜を溶かしていた。 艷を揺らす黒の睫毛は薄いま…

薄字の題名

文章、あぁ。 止めることは容易くて、継続することもまた、容易い。たった、それだけだったなら。生まれる時代を間違えなければ、僕は紙と鉛筆を持って、地球の底に溺れるだけだったろう。それがどんなに美しい史実となったか。誰にも知られない、淋しくて嬉…

短編「枝葉に落つ」

枝葉に落つ 生まれた時には翠の色みを湛えていたその両眼は、若芽を飛び、竹藪を走り縫い、雨蛙の曲線を睨んでは、より濃度を深めていった。それら自然の万緑の彩は、はじめ穏やかにヨクの身体を包み込み、撫でるように遊びを教え、いつしか愛しき友となった…

短編連載「野花の棘」第一話

野花の棘 一 薄雲がたなびく柔らかな青の地平線には嶮岨な山々の連なりが観え始め、間隙のない静かな住宅街はまばらに影を伸ばし田園へと変わった。鏡はずいぶん前に本を綴じて、その光景が隅々まで広がっていく様子を、車窓越しに眺めていた。日差しが遠の…

「令和3年8月15日」

令和3年8月15日 軽やかな足取りで跳躍を繰り返して、すべるつま先は重い亀裂を走らせ、押し込んだかかとは涼やかな波紋を震え起こす、この気候は一体どこからいらしたの?肌を撫でる繊細な風は赤ん坊のように無知な暴力性を持って、けれど老婆の腕そっくりな…

短編「比喩」

比喩 大地図をなぞり峻険に聳え立った想像よりも、だいぶ平坦な地が広がっていた。駅舎から急坂を降れば田園が土壌の滑らかな色を明瞭に、きよい空に晒されている。視界いっぱいに、自然の鮮烈な生肌。諒太は肩から落ちそうなリュック・サックを背負い直し、…

短編「記憶」

記憶 すくい上げた一杯の水は、指の隙間から残らずこぼれ落ちて水面という景色に戻った。手のひらはすぐに乾いて、震え、しかし此処に置いて行かれたという虚しさはない。あれは、自分にとって特別な存在ではなかった。偶然に触れ合って、すれ違った。三野は…

短編「その目に映る」

その目に映る 汽笛がけたたましく耳を劈き、衝撃に驚いて覚醒した。自然体な流れで車窓の下に溢した視線が、肥った腕を振り回す少女の横顔をとらえる。嗚呼、成る程。と、江見は思い、発作的な感情を忘れた。読みかけだった文庫本を鞄に仕舞い、あの気怠げな…

着こみ過ぎた服はいつの間にか全て脱げていて、僕は裸になっていた。夜更けのことであったが、月がどのような形をしていて、静寂がどのように浮遊していて、愛する者がどのような表情をしていたのか知らない。服は本当に、一枚ずつ脱いだのではなく、また引…

インクと爪跡 今後について

「インクと爪跡」管理人、作家の増山傍です。 本日三月三日より、更新頻度や作風などを刷新します。更新は、毎月五と十の付く日に今まで通り新作の短編小説を上げて参ります。 そして作風、作品の理念は下記を目標にし、より美しく素晴らしい藝術としての小…

短編「ぬるい雨」

短編「ぬるい雨」 新緑はしとど降る細雨に濁りを含ませ沈殿していた。大樹の枝先から零れる大粒のふくらみが、木々の葉から滴る小刻みなまるみが、帆のように浮かび漂う影を濡らす。憂鬱な光とともに遊ぶ風を湿らす。太い幹も細い幹も、肥えた土も泥濘もみな…

短編「窃盗犯」

短編「窃盗犯」 左足を強く打ちつけたが愚図ついている場合ではない。信乃は大股を開いて地面に手を付き体勢を整えると、すぐに下り道を疾走した。ワイドを映していたテレビの大音量が耳朶を揺らす、心拍を脅かす。呼吸が切れ切れになってそれが耳からとれて…

短編「明星」

短編「明星」 天井に穴を開けようと試みたが、脚立に乗っても手はおろか、針の先端さえ届かなかった。桃子は慎重に床に足を着き、母の裁縫箱に針をそっと戻して、自分の胸の辺りまで高さがある重い脚立を物置まで必死に引きずりながら、さて次はどうしようか…

厳選・短編八作品

ご閲覧ありがとうございます。 今まで書いた小説を厳選し、短編八作品を選びました。これを押さえておけばだいたい僕の作風を知れます笑。 では、お好きなものから、ごゆっくりどうぞ。 1 短編「早朝」 2 短編「十五」 3 短編「時間」 4 短編「新湯」 5 短編…

短編「純真」

短編「純真」 いつの間に太くなって、いつの間にひび割れてしまったのだろう。男はベンチに座り、自分の指をさすりながらそう思った。五本の先端はどれも白く硬化し、関節には赤い筋がいくつも刻まれている。こんなに酷くなるまで、一体何があったのか、全く…

短編「目糞」

短編「目糞」 駐車場から坂の上を振り向けば、連なる山々には煙雨が立っている。雲の流れに沿ってひだ状に濃淡を織りなす自然の陰影は、明るさがなくともくっきり見える。頂は薄暗く、すべり落ちるほど鮮やかに爛れる。ジャンパーのポケットに片手を突っ込み…

短編「夢寐」

短編「夢寐」 揺蕩う意識の水面に重たい石の嘆息を落とし、浮かび上がってきた泡沫の声。隼は純白のシーツをこぶしの影で汚していることに気付かない様子で、掴む力をいっそう強くし鼻を鳴らした。ブタみたい、と頼子は思った。実際、呟いたらなにもかもが消…

短編「令和」

短編「令和」 風に舞う桜の花弁を追いかけた野良猫が、立ち止まった先はバス停だった。やがて軽やかな一台が跳ねてきて、親切な運転手は停車をした。 「お客様~、ご乗車しませんか」 野良猫は大きな声のアナウンスに驚いて、近くの茂みに隠れた。そしてバス…

短編「勾配」

短編「勾配」 途中、まだ灯りのついている小さなたこ焼きの店に寄って道を聞いた。やはり線路を伝って駅を左に曲がり、すぐに道路を渡って左へ、それから住宅街に入っていくと言う。観光案内所と大きく書かれた看板の、古い建物が目印だと店先の女は東に言い…

【ご依頼作品】短編「左手」

ご依頼作品です。許可をいただきましたので、公開いたします。 この度はありがとうございました。テーマは「親子」です。 短編「左手」 左利きかもしれない。何度目かの把握反射に、隆之は直感的にそう思った。まだ、何かを持ったり、遊んだりすることはでき…

【ご依頼作品】短編「感触」

ご依頼作品です。許可を頂きましたので公開します。 テーマは「会話」です。この度はありがとうございました。 短編「感触」 死に際までの幾星霜。呼吸が止まる少し前。たとえば目を閉じ俯いたまま「それ取って」と言って、醤油のびんや、箱に入ったお菓子や…