インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

【ご依頼作品】短編「左手」

ご依頼作品です。許可をいただきましたので、公開いたします。
この度はありがとうございました。テーマは「親子」です。


短編「左手」


 左利きかもしれない。何度目かの把握反射に、隆之は直感的にそう思った。まだ、何かを持ったり、遊んだりすることはできない。したがって、息子がどちらの手が使いやすいのかなんて知る由もないのだが、ひらめきのような鮮烈な感覚が、その時起こったのは確かである。
 随分、考えていた。深刻に悩むというわけでも、嬉しさを押さえきれないというわけでもなく、想像に追いつけないのが、気にかかるのである。左利き。多勢よりも、少数。自分は別段、多くの中にいて安心するのが正解という保守的考えを持っているわけではない。しかし、楽よりも苦労を数えてしまいそうになるのは、何故だろうか。
 すぐに頭に浮かんだ問題は「親としての客観的な立場」をどうするかだった。どのような成長過程においても、息子を見つめるしかない立場である。息子自身になれないのなら、矯正を図るのも無意味に近いだろう。隆之は教育者になりたくないのだ。そしてまた、放蕩者の背中を見せたくもなく。


「おはようございます。X鉄道をご利用いただき有難うございます」


 夢幻の絵空事より覚醒した。顔を上げると、車窓一面に溶けた日の光。間隙ない、夜露に濡れた甍に吸い込まれ散りばめられた新鮮なまばゆさに目を細める。幹線道路を跨ぎ、商店街に傾き、ビル群をすり抜け、車掌は気怠げにアナウンスをし続ける。
 いつもの朝。弧を描く新しい日常。電車は規則性をもって揺れ、感覚の鈍い乗客の肩をいたずらに跳ねさせる。隆之は徐ろに目線だけで周りを見渡し、息子が大人になったらこの人たちのようにはなってほしくない、と簡潔に思った。それから、そんな発想をする自分に対して素直に驚いた。答えのない皮肉は普段のものではなく、俯瞰してみれば隆之もその一部に過ぎないと解るのに。
 退屈は想像力をよく動かす。隆之は掴んでいたつり革を離して、またしっかりと掴み直す。息子が特別な存在であってほしいとは、親なら誰もが一度は願うだろう。秀でた才能や抜群の能力があるならばなお、そうでなくとも何かしらで周りを凌駕する人生を送れるならば、親として喜ばしいというよりも、安泰な生き方ができるのだから。
 さて、特別な存在。特別な存在?
 夢幻の絵空事より覚め、執着に似た昏睡に落ちる。もしも息子が左利きだったら、果たして。


「駆け込み乗車、お辞めください」


 停車しては雪崩のように人が流れ、また詰まっていく。背中を押され、こちらも押し返し、香水のにおいがして、鼻息が聞こえて、みな目的地はバラバラであるというのに。生きていればこうしてなにかしらのつらさやしんどさは必ずついて回るが、息子にはなるべく、幸せを多く感じられる日々を送ってほしい。把握反射に気づいた時から、隆之の頭は息子ばかりだ。
 右足に鈍痛。骨を押されるような感覚に振り向けば、背の低い初老の男が本を読んでいる。すぐに下を見れば大股広げて、隆之のつま先を踏みつけているのだった。わかっていないのか、悪びれる様子もないまま。
 しかし、その態度よりも感情よりも早く、隆之は一瞬の間に理解した。たとえ左利きだったとしても、右利きだったとしても、それは様々な経験の中のただほんの一部分に過ぎない。誰もがどこかしらで苦しみを背負い、背負わせて、どこかしらで喜びを与え、与えられている。きっとこの初老の男も、自分も、これから先の息子自身も。そして時おり、幸福を胸いっぱいにするのだ。
 朝日はなめらかに車窓とともにすべる。車両は大きく揺れて、隆之は次の降りる駅に近づく準備をはじめた。












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