インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「勾配」

短編「勾配」


 途中、まだ灯りのついている小さなたこ焼きの店に寄って道を聞いた。やはり線路を伝って駅を左に曲がり、すぐに道路を渡って左へ、それから住宅街に入っていくと言う。観光案内所と大きく書かれた看板の、古い建物が目印だと店先の女は東に言い、それから開けっぱなしのパックに入っていた萎びたたこ焼きを指さして、持って行くか尋ねた。東は丁寧に断って、リュック・サックをせおい直しシャッター街の真ん中を再び歩き出した。冷え切った夜風のひどいにおいに些かの頭痛を起こながら。
 標高を読めばまだ日のある時間ならこのシャッター街からでも目的地は見えるはずだが、煌々と目を眩ませる街灯があまりに視点をぼやけさせて慣れるものではない。だから東は、ただ真正面を見つめて進む。立ち止まってその時を待ち、確認するのは気楽であろうが本当に気休めにしかならない。頬のあかぎれを爪で引欠くのも無意識に、まぶたの裏は感動の目前を造り上げる。
 信号を渡ると線路が見えた。そのままにぎやかに彩られた駅へ向かう。すぐに「近道」と矢印とともに書かれた案内板に従って狭い路地に入る。すると若い男女が向き合って何かを話していた。東は男の方の顔を一瞥し、堅く双眸を閉じて通り過ぎた。
 祭りのようにごった返す車をすり抜けて、左。古い道路を青信号を少しばかり待てずに渡って、さらに左へ。行き交う市街地の栄えた明るさの中で、教えてもらった看板だけが死んだ者の表情を照らされていた。そのまま住宅街へ入る。
 静かで、真っ暗であった。東はしばらく星や月を見れるのに時間をかけた。家は密集していて道はとても細く、頻繁に往来する車が一台通る度に立ち止まる必要があるほどだった。しかしここへ来るまで、東はひたすら前を向いて歩いてきた。すべてが無意識のまま。ついに夜目になるとその暗さからようやく目的地が眺められた。ずいぶんと高い。
 そしてあっという間に東は坂の下に居た。徒歩約二十分と経ったところ。緩やかに伸びたそれは折返してからが急勾配になっていて、剥き出しの崖からガードレールが影を伸ばし、蔦模様に倒れかかっているのだった。東は飽きるまで首を回すとサイドポケットから水筒を取り出して呷った。そして息を整える間もなく一歩踏み出した。
 東はつまらない坂に、この地に来るまでの様々な苦しみを視線で描いた。そしてすぐに涙をボロボロと流した。それは解放を願う力よりも懐抱を想う祈りに近いものであった。折返し地点で自分が何を考えていたのか解らなくなってきた。だがそれも人生であると知っている東は素直に涙するだけだ。
 歩くごとに寒さと体温で手足の感覚がなくなっていくのがわかる。登る登る。息を吐いて、唾液を飲み込み、また息を吐いて、唾液を作って飲み込む。勾配はいちど広がり、しかし今度は直線に伸びている。
 ためらわずに東は登った。晴れた夕暮れのように、苦しみに希望の光が滲み出す。体温が熱くてマフラーを解いた。耳あてを外した。そして東は同じことを繰り返しながら、勾配を登りきった。


「わあ……」


石段を少し登って絶壁から見下ろしたのはかつての自分が立っていた過去。
















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