インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「令和」

短編「令和」


 風に舞う桜の花弁を追いかけた野良猫が、立ち止まった先はバス停だった。やがて軽やかな一台が跳ねてきて、親切な運転手は停車をした。


「お客様~、ご乗車しませんか」


 野良猫は大きな声のアナウンスに驚いて、近くの茂みに隠れた。そしてバスは愉快そうに、勢いよくブザーを鳴らして発車した。その日一番遠い日差しが、まだ硬質な春の冷えた道路を少しずつ温めている時だった。しばらくしてから野良猫は茂みから身を乗り出して、飽きるまでそこで軌跡を見つめていた。
 一台と一匹の挨拶は急勾配を越えた先の翠黛の山々にこだましていた。麓には盛り上がった広大な畑地が、うねりに合わせて広がっている。日陰の角、土に汚れたキャベツ畑のクワの上で、蝶が静かに羽を休めていた。数メートル離れた雑草の下ではカマキリが、慎重に蝶の背後に忍び寄っていたが、響いてきたブザーの音にガア、と木の上で鳴いたカラスの気配が混じり合って、不均衡が生じた。しかし野生が織りなす重たい空気は通りがかった老人には、さしたる影響ない。
 細くて青白い脛を半分出しながら、真っ直ぐを見つめて歩く。分厚い眼鏡の奥で老人の瞳は快晴の空を映す。道を一本外れたところに集落があって、そこからほとんど毎日、往復をしているのだった。日課である。白いジャージを上下に着て、運動靴を履き、ステッキを持って。口呼吸をつなぎながら。
 午後の色に移り変わると、山の影は縮こまる。おもねるような温かさが近づいてきて、生き物は束の間、表情が和らぐ。
 峠を越えてゆくのであろう、隣県ナンバーの車が一所懸命歩く老人の前に差し掛かって、ほんの少し速度を落とした。躊躇いか、不審か、緩やかに止まろうとしたが、老人が顔を向けると、間もなくしてスピードを上げて去っていった。
 峠の頂上では、看板の傾いた茶店がシャッターを閉じていた。














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