インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「比喩」

比喩


 大地図をなぞり峻険に聳え立った想像よりも、だいぶ平坦な地が広がっていた。駅舎から急坂を降れば田園が土壌の滑らかな色を明瞭に、きよい空に晒されている。視界いっぱいに、自然の鮮烈な生肌。諒太は肩から落ちそうなリュック・サックを背負い直し、左右を確認してから道路を横断した。ここならきっと、理想を叶えてくれるだろうと、確信を抱いて。
 昨晩の泥酔が倦怠感にまとまって、電車では切符を握りしめながら深いまどろみと交戦していた。地方都市の要、T駅から発車し、終点までは二時間半。切符でないと改札から出られないと教えてくれた駅員は、朗らかに、誰に向けた感じでもなく笑った。この辺りは多くの人が似たような性格をしている。駅弁屋の女店主も、すれ違った老夫婦も、笑顔が柔らかかった。二日酔いで青白い顔をした自分が、恥ずかしいと思うくらいに。しかしそれも一瞬で過ぎては紡がれていく、美しい連峰や幾つもの畑や光波打つ川面を映した車窓を眺めているうちに良くなったが。
 目的の駅は意外にも近代的な造りだったが、やはりカード対応の改札はなかった。切符箱には三枚、切符が入っていた。一通道路を道なりに、歩みを進めていく。そのまま流れるように繋がる高架下のトンネルを抜けると、再び田園が、今度は群青を突き破るように険しい山岳に向かって、真っ直ぐに整列していた。線路沿いには小川が流れていて、澱んだせせらぎと澄んだ水面が交互に浮沈を繰り返している。混沌としている。
 畦道に入る前に諒太は足元を見た。だが、すぐに視線を上げた。ここではない、まだ帰りの電車まで時間はあるのだから、少しでも先に進もう。そう意志を鼓舞し、胸を張って歩き始めたので、ホームで食べた弁当の容器が大きく振動する背中でカサカサ鳴る。それを少し気にしながらも、車が頻繁に往来しているのがかすかに確認できる地平線の霞みまで行くとした。畦はどこを見ても泥の臭いが誇り高げなくぼみの土塊。初夏になる時分には蛙の群衆が大声を出しているはず、で諒太は幼年期に青田の前を過ぎるのが好きだった。自分がそばを通ると面白いくらいにピタリと鳴き止んで、その後の静寂がまだ知らない愛しさを教えてくれたものだった。
 半身を照らすまだあどけない西日は、光を滲ませながらも強く日差しを放っていた。諒太は体内にこもる暑さが心地良いと感じた。前方に腰の曲がった白頭巾の老婆の姿が見え、散歩をしているふうだった。すれ違うと、諒太は頭を下げたが、老婆は気にも止めない様子だった。丸く小さな影が、膝の上まで少し掠めた。

 この先通学路

 十字路、立て掛けられた看板にふと足跡を辿って振り向けば、でこぼこした小さな石橋が続いている。学校があるのだろうか、遠目からでもわかる大きな雑木林が生い茂って、何かを守っている様子だった。大通りに出るよりも、発見があるかもしれないと思い、地図を知らない自由を持ってリュック・サックのベルトを締め、左に折れた。そして諒太の願いが実現したのは、そのすぐのことだった。

「君は雑草のようだね」
「はて、雑草のようとは?」
「転んでも諦めずに立ち上がる。踏みつぶされても、拗じられても、引っこ抜かれてもまた生えてくるじゃないか」
「雑草は、そういう生態なのか?」
「良い性格さ。雑草ほど強かな者はいないよ」

 その後の会話はあまり気分良く楽しめたものではなかった。なぜなら、諒太は無性に雑草の生態と何気ない言葉の根拠を確かめたくなってしまったから。酒の席とはいえ、誰かに自分を比喩されたのは初めてだった。早々に言い訳をして切り上げ、家路につくといつか父から貰った大地図を出し、真剣になって適当な場所を探した。家の前や近所では、己の無知と対峙し、記憶に近寄りすぎて、もの悲しくなりそうだから。眠ってから目覚めると、昨夜の瑞々しい希望は前向きな執念に変わっていた。
 雑草。身近に在るにも関わらず、今まで意識したことすらなかった。実際、自宅を出てからここに到着するまで色彩さまざまな草花の面影を拾ってきたが、姿は知っているのに名が分からぬ、言わば流れゆく風景として認知していた事実が少なからず諒太の胸を何度も熱くさせた。そして、踏まれても、拗じれても、引き抜かれても、この小さな命らは抗い強くなるのだと思えば思うほどに、自身への知らない感情が刹那的に沸き起こってくるのだった。
 温かで優しい起伏ひとしおに、あてもなく探し求め続け、果たしてたくましく可憐な一輪の雑草と邂逅したのは日差しがわずかに弱まる夕方にさしかかった時である。そのため線のように細い茎に四枚の花弁を乗せたその薄青い野花の影はくっきりと濃い色を幾重にも落としていた。儚げな表情を湛えて、ちょうど諒太の顔を見上げながら。
 諒太は背後に車が来ないか、誰かいないか振り返って、それからゆっくりと花の近くにしゃがんだ。一輪、きっと群生しない花で、そしてこの先の路傍にもたくさん咲いているだろうとは思ったが、それでもこの花に決めた。理由はない、理由というものはいつだって、後から考えられる。今の諒太には理由よりも尊重したい感覚があった。清々しい慈しみと、憂いを帯びた悦楽である。
 道往く皆が見過ごすのであろう、先ほどまでの自分と同じように。深く考えることすら風景にはないのに、比喩として会話に花ひらかせる。諒太は昨夜、酒を飲みながらどんな不安や情熱を持っていたのか忘れた。相手が言っていたひとつひとつの言葉も、今となってはどうでもいいような気がしてきた。
 諒太は花弁に手を掛けた、否、指先で触れた。少し冷たく、柔らかな野花は揺れた。だが、どうしても雑草を確かめる術を肯定できず、諒太はしばらくの間うつむいていた。














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