インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

【ご依頼作品】短編「感触」

ご依頼作品です。許可を頂きましたので公開します。
テーマは「会話」です。この度はありがとうございました。



短編「感触」


 死に際までの幾星霜。呼吸が止まる少し前。たとえば目を閉じ俯いたまま「それ取って」と言って、醤油のびんや、箱に入ったお菓子や、外していた結婚指輪を、取ってきて貰うことができるのか。益也は考える。衰弱した年若い自分たちの可能性を、精錬された生き物のごくふつうな感覚を。
 なぜそんな想像を始めたのか、きっと優先席の手前に立つ老婆の念に侵されたのだろう。近くに知り合いらしい人物はおろか、家族や、夫らしきひともいない。独りである。腰が曲がっていて、手すりに細い指を力強く絡ませている。車内は頭を垂れる背中ばかりだが、脚を震わせて虚空を睨む老婆が抱かれる感情を、向けられる目を決めつけるのは容易い。第一に哀れみ。そして心配によく似た不安。
 だが、と益也は目を閉じる。自分が今見ている老婆の印象がその人生の全てであるはずないのは自明の理である。帰途に就けば家族が待っているのかもしれないし、枚挙にいとまがないほどの友人が彼女にはいて、集まりに向かっているのかもしれない。しかしそんな矜恃めいたことは少しの問題でもなく、老婆は数多の出会いの中で数多の会話を重ねてきたのか、そして精錬された感覚をもって他人の意思を慮りながら真理を見据えられるのかが、益也は気になるのだった。透視はおろか、確かめる術もないとはわかっていながら。
 思い出すものは過去。そして目下から湧き出る今が、睫毛の中で揺蕩うように見える。意思疎通という不可思議が本当にあるとして、年齢青き自分は実行不可能だが、目の前にいる人は叶えられるのだろうか。もしそうだとしたら、確信を持って断定出来るのは、重ねてきた会話が必要不可欠であるだろう。
 車内はよく揺れる。どんな急カーブを曲がろうと老婆は姿勢を変えずに岩場に枝垂れる木のように根を張って動かない。益也は少しずつ安堵感に似た温かな感情を視線に波打たせるようになってきた。退屈。まぶたの裏の、眠気の満潮。ひとり黙する想像よりも、会話がしたくなる。愛しい赤子が大声を上げるまで、まどろみに思考を委ねていた。

「あら、よーしよし」

 焦りを満面に、治子は息子の背中をたたく。突然押し込まれた現実に驚きつつ、益也も鼻息荒くしながら、妻と息子に交互に触れる。泣き声がゆっくりと弱くなるに連れ、赤子の手は固く握り締められていくのだった。会話はおろか、言葉も何も覚えていない小さな命がここにある。この世の全てを吸い込み、声のかたちにする、希望の象徴である。
 益也はむずかる息子をあやしながら、今一度、横目で老婆を見た。けれども光景は先程と変わらなかった。俯いたままのその姿には一つの結論が抽象化されていて、益也はようやく執着心を忘れる機を得た。














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