インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「枝葉に落つ」

枝葉に落つ


 生まれた時には翠の色みを湛えていたその両眼は、若芽を飛び、竹藪を走り縫い、雨蛙の曲線を睨んでは、より濃度を深めていった。それら自然の万緑の彩は、はじめ穏やかにヨクの身体を包み込み、撫でるように遊びを教え、いつしか愛しき友となった。薄くおうとつのない軟らかな皮膚こそ透けた光を白く延ばしていたが、影を落とす睫毛を持ち上げれば、友情の証を輝かせた緑色の瞳がそこにある全てを映した。その度に。
 集落は約七千坪の、平坦な南の麓で、杉木と竹が家屋の他を占めている。点在する五棟のいちばん小さな平屋が、ヨクと父母が棲む家である。庭の中央には、杉板と縄でできたぶらんこが一台あり、縁側を降りて踏み石を渡ればすぐに乗れる。幼子の時分からヨクはそれを漕ぐのが何よりも好きで、稽古と食事のほかは日が暮れるまでそこにいたがった。母はしっとりと手を引き、同じ齢の子どもは薄ら闇に背中を押してきたが。
 月明かりが地上に波紋を起こす、濁りの広がった快晴の夜。父は、ヨクをぶらんこの前まで連れて行き、穏やかな声で名前を呼んだ。

「ちちうえ、はい」

 その返事を聴くと、父は黙って踏み石を渡り、縁側のすだれを閉めた。ヨクは、覚束ない気持ちを左足のつま先の力に変え、蹴っ飛ばし、ぶらんこを漕ぎ始めた。
 目の前には、柔らかな葉が幾重にもなりしなる黒い大樹が一本、直立している。いつの間にか飛び越えることはおろか、自分の頭よりもずっと高く、体よりもずっと早く成長したかつての小さな苗は、共に育つにつれヨクの目を太陽の日差し散りばめてその姿のままに色付けた。そして今宵も澄みきった円みにそっと触れる。ヨクもまた、じっと大樹を見上げる。
 腕を伸ばして足を放り出すと、眩しい白銀の煌めきにたっぷり覆われて、その不快感に少し目尻を瞑らせれば、様々な記憶と一つの形が視界に滲み出る。回顧と容うには感情的で、自省と容うには不確かな霞は、しかし、勢いよく膝を曲げて縄を抱き寄せた途端に消失するのだった。まっさらな満天と、大樹の枝葉に落ちていくかのような錯覚が、現実と脳裏に見える事実をそのようにさせていると理解したのは、しばらくの間、無心で漕いでからだった。現実は幸福な気持ちに満ちていて、事実は言葉にならない感覚を凝縮していた。体を挟む二本の縄が粗く重たいのが、余計に印象を刻んだ。
 数え切れないほど乗ったぶらんこはめずらしく鳴らない。それすらも、今朝から昼にかけて代わる代わる抱き締めてくれた大人たちの優しさを思い出させて、ヨクはうつむいた。大樹から目を離すと、そこには影だけが存在していた。
 周りを見渡せば、育みを恵んでくれた村は静寂を選択した。ヨクは、夜に慣れてきてようやく気付いた風と、肩を並べた。あふれそうになる痛みを否定して、仲良くなろうとした。母の乳を飲んだ肌と、父の太い手櫛を入れた髪と、寒暖めざましい極彩色を含んだ瞳を、風はひとつひとつ受け入れていった。そして最後に撫でたのは、緑に輝く目からこぼれ落ちた、透明な涙だった。








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