インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「全」


 夢寐、或いは、陶酔。許容と否認、掌握と投擲、或いはまた、辿ること。押してから撫でること。辞書の中で生きているようだ、と朋子は思い、泡の嘆息をもらした。此処は海底、言葉の深淵。酸素が吸えず苦しくて、胸の辺り、服をギュッと掴んだ。
 何に触れても記憶の静電気が心臓にまで伝ってくるから、ひねもす膝を抱えて目を綴じている。見えなければ識る筈もない。それでもかつて遊びを覚えた不整脈は、いたずらに目の奥を刺激して白く霞んだ世界を開かせる。はじめ輪になってせわしなく回り続けたその形は少しずつ放物線を描いて果てへと消え往き、地球の自転のように新しい眩しさを率いて戻ってくるのだった。そんなだから夜中に三つの生薬を噛みつぶした。効力がじわじわと体中に広がり静かに眠っても、縫合された睫毛をぷつぷつと外せば律儀に朝が昇っていた。
 皮膚は湿っているのか濡れているのかわからない。溶けているのかもしれない。恐ろしくて動けなくとも、肉を纏い、存在していなければいけないと思うと涙が浮かんできそうになる。考えれば考えるほど、渦潮は朋子の頭上に高く高く巻かれていく。飛び込めば、綺麗に洗われて水面に出られるのだろうか。
 しかし海水を腹から噴き出して、見渡し、どこへ行けばいいのだろう。夕焼けに染まる陸に上がるとして、手を差し伸べてくれるのは、一体誰なのだろう。厚い皮膚に細長い指、幅のあるてのひら。手首から先には、怨恨の愛が困ったように微笑んでいるに違いない。朋子はまた嗚咽した。薄暗い壁の角で、うずくまりながら。途端にたまらなくなって叫ぼうとすると、今度は無聊の感覚が脳を満たす。精神まで蝕まれるような、快楽とは程遠い悦びが、間もなくして同じ夢幻を見せつけてくる。
 万物が恋なのだ。五感で触り、心情を触るもの全てが。行き着いた場所は愛する者を呼び、通り過ぎた地は愛する者を求めた。思い返せば朋子は、毎日狂っていた。

「……か」

 喉の乾きに、吐き気を催す。何も飲んでいない。









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