インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「嫉妬心」

嫉妬心


「大きな半月ね」

 握り潰されたような心臓の感覚にわずかにのけ反って、浩史は眠気で膠着していた視線を少しずつ左に向けた。白っぽい月明かりに照らされた優布子の静かな横顔は、何も語らずに、漂う暗夜を溶かしていた。
 艷を揺らす黒の睫毛は薄いまぶたと厚い目元をしっかりと縫い合わせ、豊かに紡がれた弧を描く眉、湖面のように震える隆起した頬骨のつづきを直線に断つ。膨らんだ前髪は時おり過ぎていく風にさらして、むき出しになったなだらかな額は光を集めていた。その様子は彫刻のように沈黙し、温みを感じさせない厳しさを見せている。二つの目は、見えていないのだ。
 浩史は一度たりとも縫合されたそれが開かれたところを認めたことがない。また優布子も色彩をまとうものは知らないのだった。重たさは手のひらで、質感は指先で、形は教わってから深く頷くのがいつも通りの知り方だから、今は何故、まるで全てが見えているのように言ったのか。事実、常より大きな半月がまばゆいほどに透き通った光を波打たせて、二人の前に在る。
 小道を抜けて五分ほど歩いた平たい草原の中心で、自然と立ち止まった。見渡す先には低い樹林があって、さらに遠くでは街の灯しが縮こまって燦々としている。押し込まれた夜空は翻る紺碧のスカアト。そして月が浮かぶ対極には、いくつもの星が埋められている。四方なだらかな曲線を辿る景色は、まるで、瞳の中に居るようで。
 くるぶしをのむ柔らかな草も、足音をすべらせる獣も、吐息も記憶もみな、鳴き声を潜めていた。だから、浩史は思考をめぐらせる。自分がこの月に見惚れている間に、優布子は堅固な双眸を開いたのか。
 言葉で答を求めるにはあまりに軽率な気がしていた。もとより喋る人ではない。そしてまた浩史も、尋ねることを嫌う性質なのだ。冷静を追いかけながら、具体的な想像を突き放して、それから優布子が最もよく聴いている呼吸を、緻密なまでに乱さずに。
 なにが大切なのか、背後で散りばめられている星々が照らしてくれている気がして、どうしたら良いのか、すねをくすぐる葉先の群がりが囁いてくれている気がして、浩史は未だ収まらない鼓動を確かめるために視線を落とし、それからゆっくり上げた。
 眺望すれば地上は明暗の霧中に包まれている。燃え上がる街の色とそれに燻された黒い樹林が調和して、影を先駆けとしているからか。穏やかと言うには単調で、平坦と言うにはまた、不安になるくらい膨らんでいた。一切揺れのない完成が、矛盾のない整合が、果て無くどこまでも広がっている、その中心。まどろみを催して顔を上げると、月は、微かな輪郭を保ちながら震えているのだった。
 風が吹いた。一人と一個は向き合ったその時、互いに素直であった。浩史は月に、あまり欺くでない、と心の中でとなえた。そうして恐怖に似た感情の正体を、目を逸らさずに思い知った。







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