インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

薄字の題名

 文章、あぁ。
 止めることは容易くて、継続することもまた、容易い。たった、それだけだったなら。生まれる時代を間違えなければ、僕は紙と鉛筆を持って、地球の底に溺れるだけだったろう。それがどんなに美しい史実となったか。誰にも知られない、淋しくて嬉しくてたまらない結末を迎えたか。
 拝啓、愛しの書き物。僕はあなたを生涯の妻であると解っていながら、悪癖ばかり吹き出す身体が暴れるのをただ眺めているばかりです。肉欲、我欲、自尊心、誤った矜持。これらを僕は、意思の弱い馬鹿な僕は、あまりに強い快楽に惑わされるまま振り回しています。僕はあなたに出逢わなければよかった、とさえ悔やむのです。あなたと契りを交わさなければ、今頃はお互いに苦しむことはなかったでしょう。
 僕はあなたには、恩しか感じていません。
 地上から月を眺める。それひとつさえ、この瞬間を懸命に生きる他の人間よりも、様々な独創を思考に生み出せている確信がある。しかし自分が創造者であると気付いたのは、全く別の状況で深い傷を追った最近だった。それまではひたすらに目の前だけを見つめて何かを作っていた。要するに僕は、ものすごく鈍感で、阿呆で、盲者なのだ。
 洗濯物があるから、そろそろ擱筆しなければならない。そう思う。涙が出そうになる。僕は今夜も出て行ってしまったあなたを想い、忘れて、無聊の生々しい生活に沈んでいく。しなければならない行為が、活動が、全く意味を成さずにたくさんあるから。
 いや、あなたのもとから出て行ったのは紛れもなく僕だ。では一体、ここは何処なんだろう。









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短編「枝葉に落つ」

枝葉に落つ


 生まれた時には翠の色みを湛えていたその両眼は、若芽を飛び、竹藪を走り縫い、雨蛙の曲線を睨んでは、より濃度を深めていった。それら自然の万緑の彩は、はじめ穏やかにヨクの身体を包み込み、撫でるように遊びを教え、いつしか愛しき友となった。薄くおうとつのない軟らかな皮膚こそ透けた光を白く延ばしていたが、影を落とす睫毛を持ち上げれば、友情の証を輝かせた緑色の瞳がそこにある全てを映した。その度に。
 集落は約七千坪の、平坦な南の麓で、杉木と竹が家屋の他を占めている。点在する五棟のいちばん小さな平屋が、ヨクと父母が棲む家である。庭の中央には、杉板と縄でできたぶらんこが一台あり、縁側を降りて踏み石を渡ればすぐに乗れる。幼子の時分からヨクはそれを漕ぐのが何よりも好きで、稽古と食事のほかは日が暮れるまでそこにいたがった。母はしっとりと手を引き、同じ齢の子どもは薄ら闇に背中を押してきたが。
 月明かりが地上に波紋を起こす、濁りの広がった快晴の夜。父は、ヨクをぶらんこの前まで連れて行き、穏やかな声で名前を呼んだ。

「ちちうえ、はい」

 その返事を聴くと、父は黙って踏み石を渡り、縁側のすだれを閉めた。ヨクは、覚束ない気持ちを左足のつま先の力に変え、蹴っ飛ばし、ぶらんこを漕ぎ始めた。
 目の前には、柔らかな葉が幾重にもなりしなる黒い大樹が一本、直立している。いつの間にか飛び越えることはおろか、自分の頭よりもずっと高く、体よりもずっと早く成長したかつての小さな苗は、共に育つにつれヨクの目を太陽の日差し散りばめてその姿のままに色付けた。そして今宵も澄みきった円みにそっと触れる。ヨクもまた、じっと大樹を見上げる。
 腕を伸ばして足を放り出すと、眩しい白銀の煌めきにたっぷり覆われて、その不快感に少し目尻を瞑らせれば、様々な記憶と一つの形が視界に滲み出る。回顧と容うには感情的で、自省と容うには不確かな霞は、しかし、勢いよく膝を曲げて縄を抱き寄せた途端に消失するのだった。まっさらな満天と、大樹の枝葉に落ちていくかのような錯覚が、現実と脳裏に見える事実をそのようにさせていると理解したのは、しばらくの間、無心で漕いでからだった。現実は幸福な気持ちに満ちていて、事実は言葉にならない感覚を凝縮していた。体を挟む二本の縄が粗く重たいのが、余計に印象を刻んだ。
 数え切れないほど乗ったぶらんこはめずらしく鳴らない。それすらも、今朝から昼にかけて代わる代わる抱き締めてくれた大人たちの優しさを思い出させて、ヨクはうつむいた。大樹から目を離すと、そこには影だけが存在していた。
 周りを見渡せば、育みを恵んでくれた村は静寂を選択した。ヨクは、夜に慣れてきてようやく気付いた風と、肩を並べた。あふれそうになる痛みを否定して、仲良くなろうとした。母の乳を飲んだ肌と、父の太い手櫛を入れた髪と、寒暖めざましい極彩色を含んだ瞳を、風はひとつひとつ受け入れていった。そして最後に撫でたのは、緑に輝く目からこぼれ落ちた、透明な涙だった。








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短編連載「野花の棘」第一話

野花の棘 一


 薄雲がたなびく柔らかな青の地平線には嶮岨な山々の連なりが観え始め、間隙のない静かな住宅街はまばらに影を伸ばし田園へと変わった。鏡はずいぶん前に本を綴じて、その光景が隅々まで広がっていく様子を、車窓越しに眺めていた。日差しが遠のいて、空が近づいて、世界がひらけていく。見つめる先には晩夏の照りに青黒く燻された頂が、高く高くのけ反っていた。
 日だまりが群れて濃淡をくっきりと現し、まだ未熟な色をした黄金のふさを、まだらに輝かせている。その光沢は列車が加速するに連れて、霞みの山の麓まで伸びていくのだった。田園は遠くまでその色を暈さず、時どき囲われた墓地、家屋、杉林と鳥居を、護るようにして動かない。目に映るものすべてが新鮮な血流を脈打って、鏡の瞳を離さなかった。そして緊張が勇気に変わってきた頃、一番に心惹かれた、ビニールハウスと稲田が交互に敷き詰められた何もない平地に、降りようと決めた。
 ホームは一つ、線路に沿って真っ直ぐに伸びていた。階段を登り、連絡通路の金網を振り向けば、荘厳な尾根伝いに低い雲が沈んでいる。吹き抜ける風は生ぬるい中に涼やかさがあって、不思議な心地がした。しばらくそこで立っていたが、鏡を抜かす利用者は一人もなかった。





「令和3年8月15日」

令和3年8月15日


 軽やかな足取りで跳躍を繰り返して、すべるつま先は重い亀裂を走らせ、押し込んだかかとは涼やかな波紋を震え起こす、この気候は一体どこからいらしたの?肌を撫でる繊細な風は赤ん坊のように無知な暴力性を持って、けれど老婆の腕そっくりな柔らかさで抱擁してくるのだから戸惑ってしまう。背中を押されても頭を上げるくらいなのに、向かいから全身をさらわれそうになると目をギュッと閉じなければ耐えられなかった。今日はターミナル駅の構内を少し散歩したけれど、あたたかそうな薄い洋服を着ている人は皆んな、暖炉に当たっている時みたいに穏やかな表情をしていたわ。そして屋根と壁のあるところにとても落ち着いている様だった。私はカタカタ、上体を小刻みに震わせて体を熱心に温めていた。だって真夏の洋装だったのよ……。慣れることはないけれど、笑えばくすぐったさが増す寒さが家路につくまでずっと続いていた。あなたは日の差さない大昔のように思い出の白い今日の昼、どう過ごされたの?今晩は遅くまで、温かくして過ごさないといけないわね。




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短編「比喩」

比喩


 大地図をなぞり峻険に聳え立った想像よりも、だいぶ平坦な地が広がっていた。駅舎から急坂を降れば田園が土壌の滑らかな色を明瞭に、きよい空に晒されている。視界いっぱいに、自然の鮮烈な生肌。諒太は肩から落ちそうなリュック・サックを背負い直し、左右を確認してから道路を横断した。ここならきっと、理想を叶えてくれるだろうと、確信を抱いて。
 昨晩の泥酔が倦怠感にまとまって、電車では切符を握りしめながら深いまどろみと交戦していた。地方都市の要、T駅から発車し、終点までは二時間半。切符でないと改札から出られないと教えてくれた駅員は、朗らかに、誰に向けた感じでもなく笑った。この辺りは多くの人が似たような性格をしている。駅弁屋の女店主も、すれ違った老夫婦も、笑顔が柔らかかった。二日酔いで青白い顔をした自分が、恥ずかしいと思うくらいに。しかしそれも一瞬で過ぎては紡がれていく、美しい連峰や幾つもの畑や光波打つ川面を映した車窓を眺めているうちに良くなったが。
 目的の駅は意外にも近代的な造りだったが、やはりカード対応の改札はなかった。切符箱には三枚、切符が入っていた。一通道路を道なりに、歩みを進めていく。そのまま流れるように繋がる高架下のトンネルを抜けると、再び田園が、今度は群青を突き破るように険しい山岳に向かって、真っ直ぐに整列していた。線路沿いには小川が流れていて、澱んだせせらぎと澄んだ水面が交互に浮沈を繰り返している。混沌としている。
 畦道に入る前に諒太は足元を見た。だが、すぐに視線を上げた。ここではない、まだ帰りの電車まで時間はあるのだから、少しでも先に進もう。そう意志を鼓舞し、胸を張って歩き始めたので、ホームで食べた弁当の容器が大きく振動する背中でカサカサ鳴る。それを少し気にしながらも、車が頻繁に往来しているのがかすかに確認できる地平線の霞みまで行くとした。畦はどこを見ても泥の臭いが誇り高げなくぼみの土塊。初夏になる時分には蛙の群衆が大声を出しているはず、で諒太は幼年期に青田の前を過ぎるのが好きだった。自分がそばを通ると面白いくらいにピタリと鳴き止んで、その後の静寂がまだ知らない愛しさを教えてくれたものだった。
 半身を照らすまだあどけない西日は、光を滲ませながらも強く日差しを放っていた。諒太は体内にこもる暑さが心地良いと感じた。前方に腰の曲がった白頭巾の老婆の姿が見え、散歩をしているふうだった。すれ違うと、諒太は頭を下げたが、老婆は気にも止めない様子だった。丸く小さな影が、膝の上まで少し掠めた。

 この先通学路

 十字路、立て掛けられた看板にふと足跡を辿って振り向けば、でこぼこした小さな石橋が続いている。学校があるのだろうか、遠目からでもわかる大きな雑木林が生い茂って、何かを守っている様子だった。大通りに出るよりも、発見があるかもしれないと思い、地図を知らない自由を持ってリュック・サックのベルトを締め、左に折れた。そして諒太の願いが実現したのは、そのすぐのことだった。

「君は雑草のようだね」
「はて、雑草のようとは?」
「転んでも諦めずに立ち上がる。踏みつぶされても、拗じられても、引っこ抜かれてもまた生えてくるじゃないか」
「雑草は、そういう生態なのか?」
「良い性格さ。雑草ほど強かな者はいないよ」

 その後の会話はあまり気分良く楽しめたものではなかった。なぜなら、諒太は無性に雑草の生態と何気ない言葉の根拠を確かめたくなってしまったから。酒の席とはいえ、誰かに自分を比喩されたのは初めてだった。早々に言い訳をして切り上げ、家路につくといつか父から貰った大地図を出し、真剣になって適当な場所を探した。家の前や近所では、己の無知と対峙し、記憶に近寄りすぎて、もの悲しくなりそうだから。眠ってから目覚めると、昨夜の瑞々しい希望は前向きな執念に変わっていた。
 雑草。身近に在るにも関わらず、今まで意識したことすらなかった。実際、自宅を出てからここに到着するまで色彩さまざまな草花の面影を拾ってきたが、姿は知っているのに名が分からぬ、言わば流れゆく風景として認知していた事実が少なからず諒太の胸を何度も熱くさせた。そして、踏まれても、拗じれても、引き抜かれても、この小さな命らは抗い強くなるのだと思えば思うほどに、自身への知らない感情が刹那的に沸き起こってくるのだった。
 温かで優しい起伏ひとしおに、あてもなく探し求め続け、果たしてたくましく可憐な一輪の雑草と邂逅したのは日差しがわずかに弱まる夕方にさしかかった時である。そのため線のように細い茎に四枚の花弁を乗せたその薄青い野花の影はくっきりと濃い色を幾重にも落としていた。儚げな表情を湛えて、ちょうど諒太の顔を見上げながら。
 諒太は背後に車が来ないか、誰かいないか振り返って、それからゆっくりと花の近くにしゃがんだ。一輪、きっと群生しない花で、そしてこの先の路傍にもたくさん咲いているだろうとは思ったが、それでもこの花に決めた。理由はない、理由というものはいつだって、後から考えられる。今の諒太には理由よりも尊重したい感覚があった。清々しい慈しみと、憂いを帯びた悦楽である。
 道往く皆が見過ごすのであろう、先ほどまでの自分と同じように。深く考えることすら風景にはないのに、比喩として会話に花ひらかせる。諒太は昨夜、酒を飲みながらどんな不安や情熱を持っていたのか忘れた。相手が言っていたひとつひとつの言葉も、今となってはどうでもいいような気がしてきた。
 諒太は花弁に手を掛けた、否、指先で触れた。少し冷たく、柔らかな野花は揺れた。だが、どうしても雑草を確かめる術を肯定できず、諒太はしばらくの間うつむいていた。














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