インクと爪跡

不器用にあつめた刹那の花束

短編「狐の嫁入り」

狐の嫁入り



 高低不ぞろいの苔むす石段も、その隙間に膨れていた山蛭の死体も、儼乎な威風をまとう鳥居も、目に焼き付けた数分間のそれらを大切に抱えようとしていたが、飲みかけのペットボトルとともに落としてしまった。草の根に入ったほす、という音の二秒後に蝉がくぐもった声で鳴き始め、ややあって涼風そよぐ青い苦味に震え出す。肥った杉に四方を囲まれ、見上げれば滞った薄雲は貧しい色。人影ない山間の、道脇にある崖の上に神社があった。そしてその参道に、一冊の辞書が落ちていた。

 貴樹はしばらく視線を据え、目を見張っていた。心拍数があらぬ速度で身体中をひしめかせ揺らしているのを自覚しながら、素直な恐怖にとりあえず心を委ねる按配を決めた。しかし静寂がうるさ過ぎる。万緑の彩の主張が過ぎる。対峙を理解すればするほど思考が制御され、喧しくなってきた蝉の声に頭の中を支配される。辞書はぽつねんと、ただそこに在るのだった。貴樹にとってそのことが、絶句するほど恐ろしかった。

 小学生の頃失くした国語辞書。両親のどちらか朧げだが、はじめて買ってもらった勉強道具を、まだ子供時分の貴樹は執着と言えるほど愛用し、いつの間にか紛失してしまっていた。夢中を掻き立てる熱が早く高まれば、沸騰した湯気も気泡もとたんに消えゆくものである。それ故に愛した記憶は立体的になりよく残る。識った単語には赤線を引き、思い出のある言葉が載ったページには好きな付箋を貼っていた。赤色のラメ入り付箋だった。今も当時のまま、美しく挟まれている。

 凝視に疲れて顔を上げれば、緑青色を沈澱させた社がやや傾いて建っていた。拝殿の扉には蔦のような葉が絡まりついている。幅の広い賽銭箱があり、その奥には大鈴も下がっている。たいそうなものである。しかし山道に入る手前、集落はおろかまばらな民家すら見られない林地から逸れたこの神社が、過去にでも参拝客で賑わう様子を、否、人が訪れる姿を想像できるはずもなく。

 周囲は、野花も草も乱れ咲いて無秩序であった。ゲジゲジや羽虫が溢れかえる草根や若葉の間を縫ってうごめいている。沈黙すれば真似をされ、呼吸を乱せば囁き出す。在るべくして二つの存在が、異質であると噂を立てるかごとく。

 貴樹はペットボトルを拾った。膝が小刻みに震えた。音をなるべく立てないようにリュック・サックのサイドにしまった緊張感は、いつの日か両親に怒られそうになった時の感覚とよく似ていた。後背でさんざ鳴いていた蝉が突然静かになると、間も無くして頭上をかすめ日陰にひっそりと腰を下ろす竹林の炎に入り燃やされていった。風に撫でられた一枚の笹が、さらさらと無情に追悼した。

 張りついていた踵もあおられて、貴樹は自然と二、三歩踏み、辞書の前に膝をついた。確かに記憶のままの形をしている。触れれば全く同じ感触を、何故呼び覚まされたように感じるのか。質量のある角を撫でて、涙が湧いて出てきた。

 想いを止め、爪を入れて開いた。狐の嫁入り、目に留めて、ぱたぱたと文字が、紙が濡れた。薄雲が降らし始めたのか、それとも頬を伝い流れたのか。













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短編「全」


 夢寐、或いは、陶酔。許容と否認、掌握と投擲、或いはまた、辿ること。押してから撫でること。辞書の中で生きているようだ、と朋子は思い、泡の嘆息をもらした。此処は海底、言葉の深淵。酸素が吸えず苦しくて、胸の辺り、服をギュッと掴んだ。
 何に触れても記憶の静電気が心臓にまで伝ってくるから、ひねもす膝を抱えて目を綴じている。見えなければ識る筈もない。それでもかつて遊びを覚えた不整脈は、いたずらに目の奥を刺激して白く霞んだ世界を開かせる。はじめ輪になってせわしなく回り続けたその形は少しずつ放物線を描いて果てへと消え往き、地球の自転のように新しい眩しさを率いて戻ってくるのだった。そんなだから夜中に三つの生薬を噛みつぶした。効力がじわじわと体中に広がり静かに眠っても、縫合された睫毛をぷつぷつと外せば律儀に朝が昇っていた。
 皮膚は湿っているのか濡れているのかわからない。溶けているのかもしれない。恐ろしくて動けなくとも、肉を纏い、存在していなければいけないと思うと涙が浮かんできそうになる。考えれば考えるほど、渦潮は朋子の頭上に高く高く巻かれていく。飛び込めば、綺麗に洗われて水面に出られるのだろうか。
 しかし海水を腹から噴き出して、見渡し、どこへ行けばいいのだろう。夕焼けに染まる陸に上がるとして、手を差し伸べてくれるのは、一体誰なのだろう。厚い皮膚に細長い指、幅のあるてのひら。手首から先には、怨恨の愛が困ったように微笑んでいるに違いない。朋子はまた嗚咽した。薄暗い壁の角で、うずくまりながら。途端にたまらなくなって叫ぼうとすると、今度は無聊の感覚が脳を満たす。精神まで蝕まれるような、快楽とは程遠い悦びが、間もなくして同じ夢幻を見せつけてくる。
 万物が恋なのだ。五感で触り、心情を触るもの全てが。行き着いた場所は愛する者を呼び、通り過ぎた地は愛する者を求めた。思い返せば朋子は、毎日狂っていた。

「……か」

 喉の乾きに、吐き気を催す。何も飲んでいない。









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擱筆「未知のアンサー」

 タイトルを掲げてから約三週間、とてもじゃないが、書けなくなった。何を表現したいのかも、よくわからなくなった。芸術家においては、そんな理由で断念にするなんてよくあることだ。だが僕は無念でならない。
 美しい言葉を散りばめた。未完成のままだが、失敗の参考程度に読んでいただきたい。ちなみにタイトルは、恋愛のストーリーに繋げようとしていたそのオチの意味である。




未知のアンサー


 思考は先を急き、縁の中は輪郭を引きずる。過ぎれば、すぐに忘れる。陽の光染み込んだ淡い桜に鼓動が跳ねても、遠いフェンスの内側、ありふれた老木の満開をしばらく眺めたら、帳を開けた幼い頃の記憶が気まぐれに顔を出す。入学式までに、間に合うのかしら。ただ、一枚張りの校舎と広い敷地を瞳の上で滑らせただけで、莉子は知らない子どもたちの微笑を徒らに想像する。すぐに、無機質な工場の形がそれをさらう。
 曇天は、匂いを醸さない。音を震わせない。だから雨の気配はない。そう確信できるほど、空は高く、真っ直ぐに突き抜けていた。実際には五感のいずれをも触れていないが、通り過ぎる景色は平坦な無表情を隠さない。切迫を叩きつけて展望すれば、連なる青黒い尾根には、頂にポツポツとほのかな色がかかっている。寒暖混じり合い、溶かし合って出来た霞が、平地とその奥の境があることをくっきりと示している。畑も野山もひとつとして同じ色はないのに、春風が駆け抜けてこの地を塗り替えていったと思えてならないのは、遠方がどこまでも暈されているからか。
 素直に透き通る明度は地上に平等に広がる、ゆえに車内は薄暗い。莉子は斜め向かいの、人のいないボックス席の窓を二人掛けから見ている。乗降車のアナウンスが律儀にしゃべるのと、軽快な滑走音だけが聞こえ、周囲は誰も声を発さない。まるでボウルの中に座っているみたいで、心地が良かった。
 民家が近づき、竹やぶに襲撃されて、間もなく肥えた森林に入る。やや速度が上がり、佇立する木々をかすめていく。距離縮まるものは目も留まらないが、影の隔たり越えて、ふっくらと隆起した斜面には、濡れた巨大な葉や倒木が土塊と化しているのがかすかに見られる。幾つもの太い幹の間をすり抜けた一条が広く照らしているにも関わらず、地帯はすべてが黒く、硬質だった。その、逡巡でも停滞でもない時間の澱みは、再び日の舞い込むまで追ってきた。(擱筆










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詩「不足」

不足


憎むものが 多すぎて
愛するものが 少なくて

私は 呼吸を詰まらせた

酸素は愛 酸素不足

世界は何でできている?って
ずっとずっと気になってたの

わかった時に 私は息の
嘘に気づいた 理解した

憎しみはどれだけ遠くても
近くに見えて 見えてしまって
愛しさはどれだけ近くても
遠くに感じて 感じてしまって

鼻栓入れた 耳栓つけた

しまいにゃ メガネを外したの

そしたら何もわからなくなった
それから私 ゆっくりゆっくり







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短編「嫉妬心」

嫉妬心


「大きな半月ね」

 握り潰されたような心臓の感覚にわずかにのけ反って、浩史は眠気で膠着していた視線を少しずつ左に向けた。白っぽい月明かりに照らされた優布子の静かな横顔は、何も語らずに、漂う暗夜を溶かしていた。
 艷を揺らす黒の睫毛は薄いまぶたと厚い目元をしっかりと縫い合わせ、豊かに紡がれた弧を描く眉、湖面のように震える隆起した頬骨のつづきを直線に断つ。膨らんだ前髪は時おり過ぎていく風にさらして、むき出しになったなだらかな額は光を集めていた。その様子は彫刻のように沈黙し、温みを感じさせない厳しさを見せている。二つの目は、見えていないのだ。
 浩史は一度たりとも縫合されたそれが開かれたところを認めたことがない。また優布子も色彩をまとうものは知らないのだった。重たさは手のひらで、質感は指先で、形は教わってから深く頷くのがいつも通りの知り方だから、今は何故、まるで全てが見えているのように言ったのか。事実、常より大きな半月がまばゆいほどに透き通った光を波打たせて、二人の前に在る。
 小道を抜けて五分ほど歩いた平たい草原の中心で、自然と立ち止まった。見渡す先には低い樹林があって、さらに遠くでは街の灯しが縮こまって燦々としている。押し込まれた夜空は翻る紺碧のスカアト。そして月が浮かぶ対極には、いくつもの星が埋められている。四方なだらかな曲線を辿る景色は、まるで、瞳の中に居るようで。
 くるぶしをのむ柔らかな草も、足音をすべらせる獣も、吐息も記憶もみな、鳴き声を潜めていた。だから、浩史は思考をめぐらせる。自分がこの月に見惚れている間に、優布子は堅固な双眸を開いたのか。
 言葉で答を求めるにはあまりに軽率な気がしていた。もとより喋る人ではない。そしてまた浩史も、尋ねることを嫌う性質なのだ。冷静を追いかけながら、具体的な想像を突き放して、それから優布子が最もよく聴いている呼吸を、緻密なまでに乱さずに。
 なにが大切なのか、背後で散りばめられている星々が照らしてくれている気がして、どうしたら良いのか、すねをくすぐる葉先の群がりが囁いてくれている気がして、浩史は未だ収まらない鼓動を確かめるために視線を落とし、それからゆっくり上げた。
 眺望すれば地上は明暗の霧中に包まれている。燃え上がる街の色とそれに燻された黒い樹林が調和して、影を先駆けとしているからか。穏やかと言うには単調で、平坦と言うにはまた、不安になるくらい膨らんでいた。一切揺れのない完成が、矛盾のない整合が、果て無くどこまでも広がっている、その中心。まどろみを催して顔を上げると、月は、微かな輪郭を保ちながら震えているのだった。
 風が吹いた。一人と一個は向き合ったその時、互いに素直であった。浩史は月に、あまり欺くでない、と心の中でとなえた。そうして恐怖に似た感情の正体を、目を逸らさずに思い知った。







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